INTERVIEW

生産者とふれあうことでインスピレーションがわき、素材への愛情もこだわりも増す。それもまた、進化のプロセス。

フレンチレストラン モノリス オーナーシェフ
石井 剛さん

profile.

東京都出身。エコール 辻 東京からフランス校へ。1994年卒業後、東京・青山『アテスエ』で経験を重ね、’98年、再度渡仏。三つ星『ジョルジュ・ブラン』などでの4年間の修行後、『モナリザ丸の内店』に入り、'05年料理長に。'08・'09年「ル・テタンジェコンクール・ジャポン」2年連続準優勝(現在は審査員に)。2010年3月、『アテスエ』跡地に『モノリス』をオープン。テレビドラマ「問題のあるレストラン」や「Chef~三ツ星の給食~」の料理監修・調理技術指導なども務める。

産地を訪ね、話を聞くことが 料理のヒントにもなる。

「産地へ出向くようになったのは、ここ数年です。2010年の3月のオープンから1年後に震災があり、3年ぐらいは厳しい状態が続いたんですが、その後にようやく時間がとれるようになって。自分の使う食材がどういう思いでつくられているのか、知るべきだなと」  
初めて訪ねたのは北海道。変わった飼育法の農場があると聞き、十勝に足を運んだ。広大な大地でストレスをかけずに、のびのびと育てる「どろぶた」という放牧豚。自然の土に含まれるミネラルなどの栄養分を摂ることで臭みがなくなり、肉質も味も良くなるという。
「肉がナッティな香りなんですよ。放牧なのでドングリなどの木の実をたくさん食べているんだそうです。そういうことを聞くと、インスピレーションがわくでしょう? クルミのピューレを添えたらいいんじゃないかとか。生産地を訪ねお話を伺うことが、料理のヒントになることもたくさんありました」

あらゆる料理を取り入れる… フランス料理は柔軟で懐が深い。

そんな折に誘いを受けて、鹿児島県の長島町へ。漁師たちと船に乗り、養殖ブリにエサをやる。もぎたてのデコポンを食べ、赤土からジャガイモを掘り、美しい景色に癒された。
「その夜、案内をしてくれた太田さんの家で、ブリしゃぶをいただいたんです。同じ海で育てられたアオサをどっさり入れて食べたのが、ものすごくおいしくて。どれも本当にアピールしたい食材だったので、生産者交流パーティを開き、『長島大陸セゾンコース』もつくったんですが、あの感動を味わってほしいと、ブリしゃぶは柑橘を搾ってオリーブオイルを加えたぐらい。そのあたりは柔軟になりました」
古今東西、さまざまな料理を取り込み、自分のものにしてきたのがフランス料理。だからあれだけ長く、トップに君臨している料理なのだと石井さんは語る。
「フランス本国で醤油や味噌、柚子やワサビが使われるのも、もはや当たり前。とても柔軟ですが、日本人とは違う新たな使い方を発見するんですよね。そこがフランス料理の面白いところ。懐が深いんですよ」

さまざまな土地へ足を運んで まだ見ぬ食材と出会いたい。

近ごろ特に気に入って使っているのが、長島町『宮路ファーム』の牛肉だ。きめが細かく、サシは入っているのに脂がくどくない。
「これまで食べたどの牛肉よりも理想的。フランス料理はソースで食べさせる料理なので、脂の強い肉は向いていません。でも生産者側は、等級の高い霜降り肉をめざす傾向がある。要望を直接伝えられるのも、生産地を訪ねる大きなメリットです」
以前は多くの野菜を添えていたが、いまは無駄なものを省き、シンプルながらも存在感のある料理をめざすように。その分、ますます素材にこだわるようになってきた。
「今後もさまざまな土地へ足を運んで、まだ見ぬ食材と出会いたいですね。各地とのつながりが、さらに増えればいいなと。それからやはり、世界で勝負をしたい。フランス校に行って以降、ずっとそう考えています」

多大なる影響を受けたシェフからの アドバイスを、すべて実践した。

「フランス校での研修は、つらい思い出しかありません(苦笑)。僕だけ遠く、シャンパーニュ地方の店に飛ばされ、仲間にも会えず。あとから先生に聞いたら、『お前は一人でも大丈夫そうだったから』って言われたんですが、携帯もなかった時代だったから孤独で孤独で…。まだフランス語もつたなく、理不尽なことがあっても文句ひとつ言えない。心の支えは、同じく研修中だった同級生からの手紙。励まし合えたおかげで、逃げずに耐えきれました」
卒業後は、東京・青山『アテスエ』のオープニングスタッフに。そのときフランスから手伝いに来ていたのが、現在、『ベージュ アラン・デュカス 東京』の総料理長を務める小島シェフだった。彼と仕事をともにし、多大なる影響を受けたという。
「あるとき、今後どうするべきか人生相談をしたんですよ。そしたら、まずはこの店で、ひと通り学びなさいと。そしたら再びフランスへ修業に行くのもいいだろうし、100人規模の店でシェフをやるのもいい。ゆくゆくはコンクールに挑戦してみるのもいいだろうって。それらをすべて実践したんですよね」

実力に加え、アピール力がなければ 海外では勝ち残れない。

25歳になった頃、日本から電話で交渉し、パリ郊外の一つ星店からOKをもらい渡仏した。しかしトラブルにより、現地でNGを突きつけられる。
「困り果てて、フランス校時代の研修先を訪ねたんです。そしたらシェフが隣町の店に移られていて、『宿も用意してやるから、見つかるまでうちでやっていきなさい』と。うれしかったですね…つらかった思い出も吹き飛ぶほど(笑)。おかげで見つけたサヴォワのシャトーレストランに雇ってもらえ、道が開けま した」
実力を発揮できれば、あとは紹介が受けられる。1年後には三つ星の『ジョルジュ・ブラン』で働いていた。30~40人の料理人がいるなか、盛りつけまで手がけるのは10数人。残りは1日中、仕込みばかりをやることになる。
「持ち場を移りたいと、とにかくシェフにアピールしました。やってみろと言われたときには、このワンチャンスは絶対逃さないぞと。日本での経験があるから、やれば周りのフランス人よりできるんですよ。そしたら即、異動です。日本人が海外で勝ち残っていけないのは、アピール力のなさが大きい。仕事さえできれば、周囲も納得させられるんです」

料理人である限り、自分の城で 自分の料理をつくりたくなるもの。

4年間の修業を経て帰国。渡仏中に開業していた東京駅丸ビル最上階の名店『モナリザ』へ軽い気持ちで食べに行ったところ、オーナーシェフの河野氏から声をかけられた。恵比寿の『タイユバン・ロブション』で、初代日本人シェフを務めた人物だ。
「ロブションが認める数少ない日本人ですからね。すごい人からスカウトを受けたなと。同じ辻調出身でしたが、そのあたりは聞かれないまま(笑)。スーシェフとして入ることになり、2005年には料理長になりました」
そんな順風満帆な2009年、『アテスエ』のオーナーだった中島シェフから、店を閉めるという連絡があった。最後に師匠のもとへ食べに訪れたことが、独立のきっかけとなる。
「そのときに『どうだ、石井』と。一言ですべてを察しましたが、家族は猛反対ですよ。安定した道からいばらの道へ逸れることはないだろうって。だけど料理人である限り、自分の城で自分の料理をつくりたい。この場所に『モノリス』を開いたのも運命でしょうね」

日本人が海外で地位を示せる可能性。 フランス料理にはそれがある。

『モノリス』とは、映画「2001年宇宙の旅」で“進化”を象徴する、一枚岩の謎の物体。クラシックを大切に、少しずつ進化したいという思いで店名にした。生産地を訪ね、生産者とふれあうようになったことも、さらなる進化につながっている。
「現地へ行くと、『心を込めてつくられた、この食材を使いたい』という思いが強くなる。素材を高めるにはどうしたらいいかを、より深く考えるようになりました。日本料理の考え方に近づいているかもしれませんが、フランス料理の基本は外しません」
「ソースはどこまでも奥深い」。学び始めに得た確信が、いまも揺るがないという。目下の目標は『ボキューズ・ドール』。2年ごとにフランスのリヨンで開催される、世界最高峰の料理コンクールだ。
「日本代表になって、世界で勝負したい。僕、イチローと同い歳なんですよ。日本人選手が海外で活躍するのを同世代として見ているから、自分も負けたくないなという思いがあって。日本人が海外で地位を示せる可能性が、 フランス料理にはありますからね」

石井 剛さんの卒業校

エコール 辻 東京 辻フランス・イタリア料理マスターカレッジ launch

辻調グループフランス校 フランス料理研究課程 launch