INTERVIEW
No.014

繊細で美しく、どこまでも奥深い日本料理。店の価値観を大切にしながら、自分らしさの出る料理を次代に残したい。

一汁二菜うえの 料理長

出島光さん

profile.
石川県白山市出身。県立金沢商業高等学校を卒業後、2010年4月、辻󠄀調理師専門学校へ進学。2012年2月、第27回「調理師養成施設調理技術コンクール全国大会」で最高賞の内閣総理大臣賞を受賞。同年3月、調理技術マネジメント学科(2年制)を卒業後、大阪の『一汁二菜うえの』に就職。2017年4月、箕面店の料理長に就任。現在に至る。
access_time 2017.06.30

ミシュラン二つ星を獲得している名店で、店舗史上最年少の料理長に。

紅葉の名所としても名高い大阪・箕面。駅前から箕面大滝まで続く渓流沿いの道は、四季折々の自然に恵まれ、散策を楽しむ人々でにぎわっている。その道中にあるのが、ミシュラン二つ星を獲得している『一汁二菜うえの』箕面店。築90年の料亭旅館を改装した風情ただよう個室で、豊かな自然を愛でながら季節の料理が味わえる。そんな名店の料理長に、2017年4月、25歳の若さで就任したのが、出島光さんだ。同店史上、最年少であり、初の女性料理長でもある。ご主人の上野法男さんは言う。
「年数ではなく実力。味に安定感もありますし、この店と価値観が合うんですよ。まだ紹介していない段階から料理長が替わったことを察し、『今までで一番好き』とおっしゃってくださる常連様もいます。ある程度もって生まれた素質や育った環境が影響しているんでしょうね」(上野さん)
「料理長になると決まったときのプレッシャーは凄まじかった」と苦笑いする出島さん。石川県で生まれた自身の幼少期をこう振り返る。
「山の近くに住んでいたので、おばあちゃんが採ってきてくれた山菜の料理を、小さい頃からよく食べていたんですよね。母方の実家は能登の海側で漁師をしていたので、海のものも自然と食べていました。いま思えば、恵まれた環境でしたね」(出島さん)

学び始めるまでは、正直、日本料理はダサいと思っていました(苦笑)。

「実はもともと、西洋料理をやりたかったんですよね。和食がまだユネスコ無形文化遺産になる前のことだったので、辻󠄀調に入学するまでは、正直、日本料理はダサいと思っていて(苦笑)。だけどいざ習ってみるととんでもない! 繊細ですごく美しい。それまでイメージしていた日本料理って、いわゆる家庭料理でしかなかったんですよ」(出島さん)
箕面店にはカフェも併設
そこから日本料理が知りたくなり、2年次に入る頃、恩師の紹介を受けて、『一汁二菜うえの』の豊中店へと食事に行った。
「大きなカウンターの向こうで働いている料理人たちが凜としていて、とにかくかっこよく見えました。盛りつけの華麗さにも衝撃を受けましたし、食べればもう驚くほどおいしくて、『ここで働きたい』と思うようになりました」
その後は、箕面店でサービスのアルバイトを経験。憧れはさらに膨らんだ。個室でお客様とふれあい、料理がどう出され、どんな反応を得られるかを間近で見られたことは、いまの料理にも生きているという。

「調理技術コンクール全国大会」で、優勝となる内閣総理大臣賞に。

2年次の夏に内定を得て、道は決まった。秋には調理師養成施設を対象とした「調理技術コンクール全国大会」に挑戦する3名の1人に選抜される。同大会は、内閣府や各省庁が後援を務め、1986年から実施されている由緒ある大会。翌年2月の本番に向け、毎日放課後に練習を重ねた。
辻󠄀調時代「調理技術コンクール全国大会」にて
「選抜された喜びも束の間、とにかく厳しかったですね…。練習中は、なかなか制限時間にも間に合わず、一番怒られて、しょっちゅう泣いていました(苦笑)」
日本料理部門の課題は、前菜八寸と海老を使ったお椀。「八寸」とは、8寸=約24cm四方の杉でつくられた盆に、山海の幸を少しずつ盛り合わせた料理のこと。全国7ブロックの地区予選を勝ち上がった代表選手が決勝大会に臨み、仕込みと盛りつけを2日間に分けて行う。そのなかで出島さんは内閣総理大臣賞、つまり日本1位に輝いた。
内閣総理大臣賞を受賞した作品『雛節句の思い出』
「選抜メンバーのなかで女子が一人だったこともあり、『雛節句の思い出』というテーマで、雛人形や菱餅をイメージする仕立てにしました。まさか自分が選ばれるとは思いも寄らなかったので、最後に名前を呼ばれたときは本当に驚いて。審査員の方に、前日の仕込みのときから高評価だったと言われたので、必死に練習を重ねてきて良かったと心から思いました」

一時は諦めかけたけれど、親っさんの用意してくれた逃げ道に救われた。

最高の結果を残し、4月からは箕面店で働き始めた。すべてが順風満帆に思える門出だった。しかし…。
「何をやっても怒られ、いっぱいいっぱいになってしまって。入って1カ月後のゴールデンウィーク中、『もうだめです』って豊中店にいた親っさんに泣きついたんですよ…」(出島さん)
「連絡があって、急いで家へ行ったらもう、生きていけないぐらいの面持ちで沈んでいて…(苦笑)。ちょっとキツめの先輩がいたんですよ。すごく期待をして、できると思うから仕事を頼みすぎたんでしょうね。話し合った結果、私が大阪市内でプロデュースした和食居酒屋で働いてもらうことにしたんです」(上野さん)
救いの道だった。カウンターだけの小さな店で、さまざまな経験を積ませてもらえ、徐々にこころも回復。「しっかり日本料理と向き合いたい」と強く思うようになった。
「みんなに何も言わず勝手に辞めようとしていたので、もう戻れないと思っていました。だけど、みんなで話し合ってくれたみたいで…」(出島さん)。
「その先輩と離そうかとも思ったんですが、会わないわけにはいきませんからね。それなら思いきってぶつけてみて、『出戻りです』とギャグにしてしまおうと(笑)」(上野さん)
「おかげで、その先輩とも笑い合えるようになって。世界が違って見えるようになったと同時に、やっぱり日本料理が好きなんだなって改めて実感できました」(出島さん)

「日本に生まれて良かった」という感動を、同世代にも味わってほしい。

それからは漬け物場、八寸場、造り場、煮方と、1年ずつ持ち場を上がっていった。先輩たちの独立や転職などとの兼ね合いもあったが、それでも異例のスピードだった。
「タイミングもありますが、できる子はどんどん上げていきます。うちは最初に、何をしたいか、何年いたいかと聞いて、5年なら5年でできることを教えるようにしているんですよ。目標がないと伸びていけませんからね」(上野さん)
上野さんは、自身の出身校でもある辻󠄀調で、日本料理の特別講師も務める。いまも人材育成に力を入れており、『うえの』出身者の多くが独立。海外で日本料理を手がける人もいるなど、各地で高い評価を得ている。
「箕面店にはカフェも併設するなど、さまざまな形態を示せたらなと。まずは、自分に合う働き方を見つけてもらうのが目標。みんながみんな、料亭に合うわけではありませんからね」(上野さん)
「ゆくゆくは地元で開業したいです。私自身、日本料理を知り、『日本に生まれて良かった』と感動を覚えたので、同世代の人たちにもそう感じてもらえるような、足を運びやすいお店を開きたいと思っています」(出島さん)

日本文化を学び、多くの味を知ることで引き出しを増やし、料理に還元。

日本料理は付随するものも含めて奥が深い。1年目から茶道を習い、最近では書道も始め、素養を高めている。
「日本の文化そのものを感じられるのが日本料理です。文化を学ぶのは、料理人にとっても大切なこと。礼儀作法から器の扱い方から、何から何まで勉強になります。将来的には、お品書きも自分で書けるようになりたいですね」(出島さん)
若い分、いろいろな経験をさせたいと、月に一度は、ご主人と女将と豊中店の料理長との4人で食事に出かけ、引き出しを増やしている。箕面店のメニューは月替わり。まずは自分で考えたものを豊中店の料理長に話して助言をもらい、最終的にご主人と女将さんに試食してもらって決定していく。
「私の意見が入らないよう、まずは自分が良いと思ったものを出してもらい、それに対してフィードバックをしています。押さえるところは押さえながら、遊びも入れるのが一番いい。そのあたりの塩梅は、よくわかってくれているので安心です。現状、もっと遊んでいいよとは言っているんですけどね(笑)」(上野さん)
「まだ余裕がないんですよ(苦笑)。料理長に就いた以上、自分らしさがなければ意味がないと思うので、できるだけ過去と似たメニューにはならないよう心がけています。自分の考えたものが、看板料理として残るかもしれない。そうなれば本望ですね」(出島さん)

出島光さんの卒業校

辻󠄀調理師専門学校 launch

学生時代に日本一!?
出島さんが挑んだコンクールへの道

何度となく繰り返されるシミュレーションが本番への自信になる。

コンテストという緊張する舞台でも実力を存分に発揮できるよう、自主的にがんばる学生たちを先生たちも全力で応援します。
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