INTERVIEW
No.134

ブルゴーニュで感じた人の温かさ、料理やワインのおいしさ、楽しい時間の素晴らしさを再現。人が育ち、羽ばたいていくフランス料理店。

ル・ブルギニオン オーナーシェフ

菊地美升(よしなる)さん

profile.
北海道出身。函館市立函館東高等学校から大阪の辻調理師専門学校に進学し、フランス料理の道へ。1986年に卒業後、東京の『オー・シザーブル』や『クラブニュクス』での修業を経て、1991年に渡欧。フランスの『プーラルド』『ル・ジャルダン・デ・サンス』『レキュソン』、イタリアの『エノテカ・ピンキオーリ』など、星つきレストランなどで経験を重ね、1996年に帰国。東京・表参道『アンフォール』で3年4カ月シェフを務め、2000年1月、西麻布にフランス料理店『ル・ブルギニオン』をオープン。「ミシュランガイド東京2021」で一つ星、「ゴ・エ・ミヨ2021」で3トックを獲得するなど、現在も高い評価を保っている。
access_time 2021.06.18

育てた感覚はなく、僕がもがいているところに、しがみついてきてくれただけ。

菊地美升さんがオーナーシェフを務める、東京・西麻布のフランス料理店『ル・ブルギニオン』は、数々のシェフを生み出してきたことで知られる名店。広尾『ア・ニュ Shohei Shimono』の下野昌平シェフ、六本木『アジュール45』を先頃勇退し開業準備中の宮崎慎太郎シェフ、西荻窪『フレンチカレー スプーン』の和田直樹シェフ、福岡『ル・シュッド』の手塚卓良シェフ、青山『フロリレージュ』の川手寛康シェフ、広尾『レストラン マノワ』の中村豪志オーナーソムリエ、目白『ル・ヴァンキャトル』の北野智一シェフ…輩出した初期メンバーだけでも錚々たる顔ぶれだ。
「卒業生の活躍はうれしいです。とはいえ“育てている”という感覚は全くなくて、僕がもがいているところに、しがみついてきてくれただけ。それができる人は強いので、結果、独立できているんだと思います」
オープンは2000年1月。菊地シェフの実績により、当初から満席が続く人気店だった。テレビや雑誌の取材も連日殺到。質の高い仕事を求められつつ多忙を極める環境は、若手には厳しい環境だっただろう。しかし誰ひとり逃げださなかった。
「スタッフは『ル・ブルギニオン』が好きで働きに来たはずなのに、その店を嫌いになって辞めるのは一番つらい。この店のせいでフランス料理が嫌いになるのは悲しすぎます。そりゃ怒りもしましたが、僕は引きずらないし追い込むことは絶対にしませんでした。完全な料理を出したいから怒るわけですが、怒り続けるとスタッフの糸が切れてしまい、結局は料理のクオリティが下がってしまいますからね」
「こんなにも忙しくお客様が楽しそうな店なら、スタッフも幸せであるべきだ」と語る菊地シェフ。
「できるだけ待遇面も考慮し、フランスでの研修もサポートしてきました。自分だけが頑張っても、お店は続きません。スタッフが目標をもって、同じような志でついてきてくれるためには、僕がレベルアップし続けることも大切。これからもどんどん刺激を受けて、より完成度の高い料理をつくっていきたいです」

かっこよく見えた西洋料理の先生方に憧れ、フランス料理の道へと進んだ。

1966年、北海道函館市に生まれ、幼い頃から食べることが好きだった菊地シェフ。両親が共働きで忙しかったため、自然と料理をするようにもなった。
「外食もよくしていたんですが、フランス料理は食べたことがなくて、将来は洋食屋さんになりたいと思っていたんですよね。辻調理師専門学校を選んだのは、『料理天国』(テレビ番組)に出演されていた先生方がかっこよく見えたから。入学後もとくに憧れたのは、西洋料理の先生方でした。外来の講師陣も錚々たるメンバーで、フランス人シェフもかっこいい。食べて惹かれたのもフランス料理だったので、この道に進むことに決めました」
就職先は当時、日本版『ミシュランガイド』とも言えるフランス料理店のガイドブック、『グルマン』を参考に選ぶことにしたという。
「三つ星より二つ星のほうが勢いありそうだな、なかでもシェフの名前が書いてあるところは有名なんだろうな、という勝手なイメージで(笑)、六本木の『オー・シザーブル』へ。マネージャーだった山田(恵)さんに面接してもらったんですが、なんて素敵な人だろうと。フランス料理の素晴らしさや楽しさを魅力いっぱいに語ってくださり、絶対ここに入りたいと思ったんですよ。いざ入ると、めちゃくちゃ絞られましたけどね(苦笑)」

まかないをシェフにおいしいと言ってもらえ、料理の面白さを感じるように。

朝は調理場で仕込みを手伝いつつ、サービスを1年間担当。多くのお客様に支持される山田マネージャーの姿を見て、サービスの重要性を知る。就職した1986年当時は、東京のフランス料理界の勢いが凄まじかった頃。
「レベルの高いシェフたちがいて、どこのお店も朝から晩まで働いていました。経験のない1年生が、知識も技術もなければ怒られるのは当たり前。最初はきつかったですが、ここで辞めたら振り出しに戻る。両親からもマダム(関根葉子さん)からも、石の上にも三年だと言われていたので、とにかく3年間は頑張ろうと決めていました」
2年目で調理場へ移ると、少しずつまかないをつくらせてもらえるように。
「シェフにおいしいと言ってもらったり、みんなに好評だったりするのがうれしくて、料理の面白さを感じるようになりました。まかないのために早く来たり残ったりして仕込みをするのも楽しかったんですよ」
「当時、オー・シザーブルで働かれていた、五十嵐(安雄)シェフ(現・銀座『ル・マノアール・ダスティン』オーナーシェフ)や川崎(誠也)シェフ(現・恵比寿『アラジン』オーナーシェフ)も厳しかったですけど、個性あふれるシェフたちに学べたことが自分のベースになっています」
目標だった3年を半年ほど越え、見聞を広めようとフランスへ。仕事で渡仏していた先輩のもとに居候し、約2カ月間、食べ歩きに費やした。
「現地で仕事もしたかったんですが、言葉もわからないし、技術的にも中途半端な状態。日本では、当時勝どきにあった『クラブニュクス』に移られていた五十嵐シェフから誘ってもらっていたので、相談してみることに。最初はケチョンケチョンに言われていた僕が、『来てほしい』と呼ばれるまでになっていたのは感激でしたよ。シェフに『1年半ほど働いたらフランスへ行きたいから、それまでに覚えたい仕事を教えてください』とお願いしたところ、快く受け容れてくださいました」

いい思い出が「楽しい気持ち、幸せな喜びを届けたい」という想いに直結した。

肉の掃除や火入れの仕事なども学び、結果、2年間修業。その間、フランス語も学びつつ、1991年9月、再びフランスへ。食べ歩き旅行時に知り合った日本人料理人が、自身の勤めていた2店で働けるよう話をつけてくれた。
「1964年からミシュラン二つ星を獲得している『ラ・プーラルド』では、伝統的なフランス料理を約1年間経験。週末は忙しかったものの平日は余裕があったので、若手のコンクールで優勝していたソムリエからワインについても教えてもらいました」
「一方、その後に勤めた『ル・ジャルダン・デ・サンス』は、開業後すぐに二つ星を獲得した先鋭的なお店で、平日も常に満席。料理人もそんなに多くなく、仕込みしても仕込みしても追いつかない。魚をおろす量も野菜を切る量も半端なく、約1年間日本以上に働き仕事が速くなりました」
その後は、ブルゴーニュ地方の『レキュソン』へ。
「『ラ・プーラルド』時代、ソムリエが各産地でのテイスティングにも連れて行ってくれたんですが、そのとき立ち寄ってすごくおいしかったんです。一つ星の小さいお店だったんですが、彼の友人でもあったシェフの感性が素晴らしくて…。ぜひ働かせてほしいと直談判しました」
天才的な閃きをもつ面白いシェフだったが、それだけに求めるものの水準も高く、フランス人の若いスタッフは続かなかったという。
「結局、僕と二人きりになったんですよ。仕事に明け暮れて毎日ヘトヘトでしたが、シェフも僕に興味をもってくれ、料理の提案もさせてもらえるなど楽しかったです。一緒にワイナリーも巡って、ますますワインにものめり込みましたし。親しくなった生産者たちはあたたかい人たちばかり。彼らとのいい思い出が、『フランス料理やワインを通して、楽しい気持ちや喜びを届けるお店をつくりたい』という想いにもつながりました」

最後にお見送りすると、「楽しかった」と笑顔で帰っていただけるお店を実現。

当時、日本がイタリア料理ブームだったこともあり、親しくなったワイン生産者の紹介を受けてフィレンツェの 三つ星店『エノテカ・ピンキオーリ』でも仕事を経験。食べ歩きをしつつ1年弱働いて刺激を受け、1996年5月に帰国。新店の開業準備を進めていた五十嵐シェフから、表参道にあった『アンフォール』を任されることになった。
「将来は独立したいと伝えると、自分の店のつもりでやってくれていいと言ってもらえたので、イタリア料理の影響も出たメニューにガラッと替えてしまったんですよ。最初は売上げが少し落ち込んでしまったんですが、徐々に取材もされるようになり、お客様も増えていきました」
こうして3年4ヵ月シェフを務め、2000年1月に『ル・ブルギニオン』独立開業。
「調理場に関しては、僕がいればなんとかなると考え、『アンフォール』のスタッフは一人も連れて行かず、新規で募集しました。ただ、サービスには、任せられるスタッフが欲しかった。そのサービスに惚れ込んだ『京橋ドン・ピエール』支配人の岡部(一己氏/現・『レストラン アロム』代表)に独立前から声をかけ、ソムリエも若手のコンクールで準優勝していた広瀬(奈津江氏/現在は主婦)にお願いしたんです」
しっかりとしたサービス人がいて、ワインも専門的に扱っていて、アットホームながらも特別感のあるレストランにしたい。その理想を実現し、瞬く間にリピート率の高い人気店となった。
「最後にお見送りすると『楽しかった』と笑顔で帰っていただけていたんですよね。ただ開業時、調理場には僕、二番手の下野、三番手の宮崎までしかいなくて。今考えると豪華ですが、当時は本当に使えない二人でしたよ(苦笑)。新卒でまずサービスに入った和田も、少し遅れて調理場に入った手塚も、最初はダメダメで僕も怒ってばかりでしたが、みんな辞めずによくついてきてくれたと感謝しています」
2年ほど経った頃、岡部マネージャーが独立を志願。送りだそうとしつつも困っていたところ、代官山『ラブレー』のオーナーになっていた山田恵さんに紹介されたのが中村豪志さんだった。
「まだ若くてエネルギッシュで、ものすごく一生懸命。下野が卒業し、若い川手が二番手になると、サービス人と料理人とでバチバチやりながらも切磋琢磨してくれ、僕にとってもいい刺激になりました」

日々の小さな成長に気づければ、料理の楽しさを感じられるようにもなる。

レストランはおいしい料理さえつくっていればいいわけじゃない。その考えは今も変わらず、お客様に関する情報はすべてストック。文字だけでなく口頭でも伝え、サービス人だけでなく料理人の耳にもなるべく入れるようにしているという。
毛ガニのカラパス ポワロのエスプール 甲殻類のコンソメジュレ
「このお客様はどういう方なのか。まかないを食べている時間などに、なるべく調理場スタッフも把握できるように話しています。ただつくるより、『○○さんにつくっている』と意識したほうが、気持ちも入ると思いますからね」
和歌山産鮎のリゾット 鮎の肝のソース 胡瓜とレモンのサラダとすだち果汁のサワー
『ル・ブルギニオン』の人気は衰えることなく、昨年は20周年という節目を迎えた。しかし見舞われたコロナ禍。4月早々から休業に入り、5月からは土曜限定のテイクアウトから再開。2品ほどから始めるも予想以上の需要があり、次第に拡大していった。
エスカルゴと牛の骨髄 トリッパのロースト
「テイクアウトがきっかけでリピーターになってくださったお客様もいらっしゃいます。その後も夜営業を控えるなど、時勢に合わせた対策をとっていますが、時間ができた分、スタッフの勉強に。肉の掃除や火入れなど、今まで二番手にならないとできなかった仕事を若いスタッフにも教えているんですが、やればどんどんできるようになるんですよね。コロナ禍を機に、今まで『自分でやらないと』と思っていたことも任せたほうがスタッフも育つなと思うようになりました」
ブレス産小鳩のロースト 鳩出汁のソース パニス グリーンアスパラガス ウド 人参添え
「その時々にならないとわからないこと、気づけないこともある」と菊地さん。それは昔も今も変わらない。
「シェフたちのコロナ禍」(文藝春秋刊)に登場する34人の一人として菊地シェフの答が掲載
「僕のように、ただ食べることが好きで進んだ人間でも、シェフになれています(笑)。これから料理の世界に飛び込もうとしている人たちも、最初はつらいと感じることもあるでしょうが、自分の変化に目を向けてほしい。1カ月単位でも、少しずつは必ず伸びているので、その変化をモチベーションにして頑張ってほしいです。そうすれば、料理の楽しさを感じられる段階にまで辿り着けるはず。お客様を幸せにでき、自分たちも幸せになれる…その喜びを味わってもらえたらうれしいです」
今もステップアップを目指し若い❝食業人❞が集う。新人の藤井 啓汰さん(後列中央 辻󠄀調理師専門学校 調理技術マネジメント学科2019年卒)もその一人

菊地美升(よしなる)さんの卒業校

辻調理師専門学校 launch

辻調理師専門学校

西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ

食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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