INTERVIEW
No.118

大切な食材をおいしく仕立て、お客様はもちろん送り手も幸せにする好循環を生むことが、食文化を守り育てるフランス料理業界の使命。

レストラン マノワ オーナー・ソムリエ

中村豪志さん

profile.
山梨県出身。山梨県立白根高等学校からエコール 辻󠄀 東京 辻󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジ、辻󠄀調グループ フランス校に進学。卒業後の1999年、東京・代官山のフランス料理店『ラブレー』に就職し、サービスを担当。約3年間の経験を積み、西麻布『ル・ブルギニオン』のマネージャーに。その後、銀座『クラブニュクス』、代官山『ル・ジュー・ドゥ・ラシエット』、広尾『ア・ニュ』の支配人およびソムリエを務め、2011年11月に『マノワ』をオープン。
access_time 2020.07.27

大自然から食の恵みを受け、「世界を見ろ」と育てられた少年時代。

東京・広尾のフランス料理店『マノワ』の中村豪志さんは、オーナーでもありソムリエでもありハンターでもある異色の存在だ。故郷は山梨県芦安村(現・南アルプス市芦安)。日本で二番目に高い山、北岳のふもとにある人口300人ほどの小さな村で生まれた。山小屋を営む父親に連れられ、春は山菜採り、夏はイワナ釣り、秋はキノコ狩りへ。冬には鹿や猪などのハンティングにもついていく。食材は自分たちでとって食べるのが当たり前。日常的に畑仕事を手伝い、ほぼ母親の手料理のみで育ったという。
「田舎ならではなんでしょうけど、夕食時になると知らない大人たちが食べにくるんですよ。だから人前で緊張したことが一度もなくて、中学2年の時には県の弁論大会で優勝もしました。小中学校は1学年7人ほどの狭いコミュニティでしたが、両親から常に言われてきたのは『世界を見ろ』。もともと父は服飾関係の職人で、世界に向けて自分のファッションを発信していたんです。腕があればどこでもできると、大好きだった山の近くへ東京から引っ越してきたこともあり、『日本だけに留まるな』という教えを受けていました」
故郷の芦安村で幼少時代
市街の高校に入ると一気に世界が広がった。通学のために許されたバイクを乗り回し、家にも帰らず遊ぶ日々。一方で中学から続けていたバレーボール部では全国大会をめざし、友人たちと組んだバンド活動にも熱を注いだ。
「当時から仲間を大切にする意識は強かったです。仲間がいないと何もできないし、仲間だけは絶対に裏切らないでおこうと」
幼少のころからの恵まれた食体験により、料理人を志すようになった。なかでも憧れたのは、まったくの未知だったフランス料理。両親からの教えもあり、フランスへ行きたいと考えた。
「フランス校がある辻󠄀調グループを見つけてくれたのは両親です。苦労をしてきた父からは『職人にはなるな』とも言われ続けてきたんですが、フランスへ行くこと自体には賛成してくれていたんでしょう。家にお金がないことも知っていたので、学費の返済を条件に許してもらいました」
フランス校時代 仲間たちと

フランスから日本を見たことで気づけた、“食”という文化の大切さ。

エコール 辻󠄀 東京に進学すると、飲食店でのアルバイトで両親に学費を返しながら寮生活を送った。学べる限りのことを学ぼうと、誰よりも早く登校。最前列で授業を受けた。
「今に続く友人が多くできました。同じ目標に向かう仲間がいるのがどれだけ恵まれていたことなのかは、楽しかった学校生活を思い返すと、自分ながらよくわかります。親から自立したことで、今までの生活が当たり前ではなかったことも痛感しました」
フランス校卒業時の寄せ書き
卒業後は念願のフランス校へ。半年後からの研修では、スイスとの国境付近、ジュラ地方の一つ星レストランで働き、フランス人たちとの3人部屋で過ごした。
フランス校時代の食べ歩きでポール・ボキューズ氏と
「フランスから日本を見られたことが大きかったです。フランスの飲食文化は、日本とは全然違う。フランス人は職人を大切にしますし、パンはあの店、ソーセージはあの店で買うといった、自分の想いをとても大切にする習慣がある。両親を見て育った子どもたちが、彼女と食事をするようになると、一生懸命ワインを選ぶんです。決して高いものでなく、彼女との空間を楽しむためのワインを選ぼうとする。これが“文化”なんですよ」
当時の夢は、フランスで働き、自分でつくった料理をフランス人に提供することだった。しかし研修中に転機を迎えた。
「懸命に働いていたら、ある日、ガルド・マンジェ(冷たい料理)をやれと言われ、フォアグラをさばいてテリーヌをつくってお客様に出したんです。そのとき、もう叶っているなと感じて…自分が見ていたのは夢ではなく、通過点としての目標だったんだなと。そこから自分がこの仕事を続けていく価値と意義について考えました。まずは両親に恩返しがしたい。それをもっと超えていくなら、地方に恩返しがしたいなって。そのためにも東京での独立を目標に置きました」

サービスの面白さに目覚め、この道で独立をめざそうと決意した。

帰国後は、雑誌を見て惹かれた西麻布のグランメゾン『ザ・ジョージアンクラブ』を訪問。シェフの久高章郎さんから紹介を受け、代官山の『ラブレー』に就職する。
「『ラブレー』での面接では、自分の想いを一生懸命話しました。その際に、有名なサービス人だった山田(恵)オーナーに、『君は東京を変えるぐらいのサービス人になれる』って言われたんですが、当時は料理人志望だったのでピンときていなくて…。ただ、サービスの重要性は、フランスでも感じていました。『あの人のサービスを受けたい』と思えるプロが、いいレストランには必ずいたんですよね」
まずは通例に従いサービスからのスタートだった。誰を前にしても臆さず、気持ちを込めて誠実にお客さまと関わる。そうすることで、サービスとして当初から高い評価を得ることができた。
「有名な人気店で、いいお客様にも恵まれている。接客での会話は楽しく、さまざまな考え方を学び、視野の広がりを感じました。休みの日には、東京中のフランス料理店へ。お金がないのでランチでしたが、サービス人は同じですからね。その結果、必要だと確信したのは、個人としての人間的魅力でした」
そんな折、料理評論家の見田盛夫さんが来店。帰り際、「君は輝くサービスをしているね」と褒められ、著書である東京フランス料理店ガイド『エピキュリアン』でも中村さんのサービスが賞された。
「あの瞬間が僕にとって大きな岐路でした。僕より才能あふれる料理人はいくらでもいる。独立するには、当時から少なかったサービス人として駆け上がったほうが近道だと思ったんです」

自分の個性を磨く努力を積み重ね、23歳で支配人に。

こうして山田オーナーから、本格的にフランス料理のサービスを教わるようになった。ワインについて学ぶのはもちろん、言われたとおり、新聞やニュース番組、週刊誌やスポーツ番組は欠かさずチェックし、見聞を広めた。休日には常連客と食事に出かけ、年賀状や暑中見舞いは自費で欠かさず送付。やがてそれは数千枚にも上るようになった。
「一つ二つ知っている人生より、100個200個知っている人生のほうが楽しい。そんな山田オーナーの考えに深く共感しました。石の上にも3年、まずは3年続けなければ誰も認めてくれないけれど、次は俺が紹介するから3年だけにしろとも言われていて。僕の成長のことを考えてくれていたんでしょう。2002年、西麻布の『ル・ブルギニオン』へと移り、マネージャーになりました」
レストランはおいしい料理さえつくっていればいいわけじゃない。それをシェフの立場から教えてくれたのが、『ル・ブルギニオン』の菊地美升オーナーシェフだった。志の高い同世代のスタッフが集まっていた同店では、お客様により良いものを提供したいからと、料理人とサービスがぶつかることも少なくない。そんな姿勢を菊地オーナーは認めてくれた。
「仕事を楽しみながら、みんなで協力する。妥協を許さないがために、ときには喧嘩にもなりかけましたが(笑)、仕事が終わったらみんなで飲みにも行く。そんなお金には換えられない環境があったからこそ、続けられたと思います」
その後も銀座や代官山のフランス料理店でソムリエおよび支配人を務めていく。
「仕事を始めた当初から30歳で独立すると言い続けていました。そのためにもお客様から本当の意味で良い評価をいただくことが不可欠。僕という個人がつまらなければ、良い評価をいただくことはできません。やはりサービス人は、常に自分の個性を磨くことが大切なんですよ」
2009年には、下積み時代をともにした下野昌平シェフが開いた広尾『ア・ニュ』の支配人となる。同店はすぐさまミシュラン一つ星を獲得した。狩猟免許を取得したのは2010年のこと。父から散弾銃を譲り受け、常連客とともに各地へハンティングに出かけていた。
常連のお客様とともに各地へハンティングに出かける
「この場所(『マノワ』)をお持ちだった方ともご一緒していたんですが、『独立したい』という話をしたら、『中村がやるなら』と無償で提供してくださったんですよ。ひとりでは何もできないことを、僕はよく知っています。だけど自分ができると思ったことは、いつか必ず実現できる。言わなければ形になりませんし、人との関りを大切にして、言葉にすれば誰かが助けてくれるんです」

「ふるさと納税」の取り組みで、地方もお客様もスタッフも幸せに。

こうして2011年11月、『マノワ』をオープン。自身やハンティング仲間を通じて仕入れたジビエ(野生鳥獣肉)、山梨県で両親が育てた野菜、価格高騰を見越して入手を進めていたフランス産ワイン、そして何よりそのサービス…、多くの強みをもった費用対効果の高いフランス料理店として、これまでの常連客を中心に新たな顧客も獲得していった。レストラン経営が軌道に乗ると、物販にも注力。
「スタッフの生活水準を向上させるには、実店舗以外の活路も見つけるべき。いくらおいしい料理を提供したって、スタッフの生活が守られなければ意味がない。そこがすべてのスタートラインです」
フランスにいる友人たちに協力を依頼し、ワインをつくるようにもなった。ジビエを使った商品も、テリーヌやソーセージなどを製造。『マノワ』の味を再現し、やがてそれは、地域貢献へとつながっていく。
「全国各地の自治体と、『ふるさと納税』の取り組みを進めています。その土地でとれたジビエを『マノワ』で加工し、『ふるさと納税』の返礼品にしましょうと。ジビエを購入することで地方のハンターが潤い、我々のスタッフにも還元され、その味で購入された方にも喜んでもらえる。購入された方の節税にもなりますし、各自治体にはお金が入り地方の活性化にもなるビジネスモデルだと思います」
マノワのジビエ 日本鹿といのしし テリーヌとソーセージの詰め合わせ 
これまで培った人脈やプレゼン力を活かし、すでに山梨県富士河口湖町と和歌山県紀の川市で展開。北海道標茶(しべちゃ)町と福岡県糸島市との協働も決まっている。全国的に問題となっている鳥獣被害対策として、各地自体で狩猟の支援はされているものの、狩られた野生鳥獣の多くはただ捨てられているのが現状だ。
マノワオリジナルワイン
建設に費用のかかる食肉処理場がないことや、おいしく調理するためのノウハウがないことなどが原因となっている。大切な命であり、重要な資源でもあるジビエの問題を打開するのも、中村さんの目標の一つだ。
「田舎で生まれ育ったのでわかるんですが、田舎と東京では1万円に対する価値観って全然違うんですよ。東京で飲食業をやっているからには、助け合ってみんなが幸せになれる環境をつくらなければいけない。それはもう使命だととらえています」
蝦夷あわびとカリフラワーのムース 北海道・上川町ひぐまのコンソメジュレ キャビア添え

コロナ禍で抱いた未来への覚悟。フランス料理業界が果たすべき責務。

そんななか突如起こった、2020年のコロナ禍。3月末からスタッフを自粛させるも、先の見えない状況に不安もあった。
「スタッフの生活を守るために頭を悩ませていたんですが、4月に入ると物販の売上げが急増したんですよね。店に来られない常連さんたちが、ワインやジビエの商品を数多く買ってくださり、『マノワ』の価値がわかりました。これだけ愛されている店なら、オーナーは覚悟をもつしかありません。この機会に、飲食業界が抱える課題や地方の未来のことも含めて、とことん向き合いました」
埼玉県産 網獲りの真鴨 ルアネーズソース
中村さんには、この先50歳までに成し遂げようとしていた10年計画があった。北海道に食肉処理場や加工場を建設し、ジビエをはじめ食品製造の事業を一貫して手がけることだった。
蝦夷鹿のロース肉のロースト ポワブラードソース
「函館近くの森町にある、長年利用されていなかった2,500坪弱の土地を譲り受けたんですが、荒れ地だったので整備にものすごくお金がかかるんですよ。だけどコロナ禍で、金融面での施策や、助成金・補助金制度もありますし、整地にかかるコストも抑えることもできた。この機会を活用し、10年計画を前倒しで進めようと決めました」
非日常的な空間で非日常的な体験を提供するのがレストランの魅力。しかしその裏では、やりがいは大きくとも、厳しい労働条件で働いている人たちも少なくない。一方で、食材を生産する側の地方が潤っていないもおかしいと、中村さんは考えていた。
「自分が携わる飲食に関しては、こだわりをもった食材を生産から手がけ、地方に還元しようと計画中です。東京のレストランは“看板”であるべきなんですよ。今はこの一店舗ですが、腕をもちながらも、それに見合った環境を得られていない料理人たちに、うちの看板や食材を利用した飲食店や食品製造に携わってもらえる仕組みを整えるつもりです。フランス料理を手がけるからには、食の文化を築き、伝え続けるために動くべき。すべての人が幸せになれる道を、僕らフランス料理業界はつくっていかなければならないと考えてます」
コロナによる影響は、マイナスばかりではなかった。自粛生活を送った人たちは、人とのつながりの大切さ、レストランで食事をすることの価値を再認識したはずだ。
「楽しみがなければ、人は生きていけません。楽しいことって、人と生きていくことだと僕は思うんです。その大切さを僕のような人間が発信していかなければならないと感じています。自分自身が“食”に興味があって、料理を学んだ学生時代の経験がなければ、今の自分はありません。人生は、人に言われて生きるものじゃない。これから新しい道に進む若い人たちには、本当に自分がやりたいことを選んで、突き詰めてほしいと思います」

中村豪志さんの卒業校

エコール 辻󠄀 東京 辻󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジ launch

辻󠄀調グループ フランス校 フランス料理研究課程 launch

辻󠄀調グループ フランス校

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