INTERVIEW
No.142

テレビや専門学校で憧れた、フランス料理を手がけるホテルの料理長。その夢を追うなかで辿り着いた調理の教職こそが、実は天職だった。

杉森高等学校 食物科 専門調理師・教諭

壇 和幸さん

profile.
福岡県出身。福岡県立山門高等学校から辻󠄀調理師専門学校に進学。1984年に卒業後、福岡県のホテルニューオータニ博多に就職。約23年間の経験を重ね、熊本県のKKRホテル熊本に転職。その後、福岡に戻り、短期大学で調理を教える非常勤講師となり、専門調理師の国家資格を取得。2010年、福岡県・杉森高等学校食物科の教員に。数年後には家庭科の教員免許を取得し、現在も西洋料理を中心に指導を続ける。
access_time 2021.12.03

専門学校時代に学んだ和洋中の基礎が、現職の調理教育に役立っている。

福岡県柳川市にある杉森高等学校。1961年、全国の私立高校で初めて調理師養成施設として認可された同校の食物科で、壇和幸さんは教諭を務めている。
「現在は2年生の副担任をしていて、2年生と3年生の授業を受けもっています。メインは西洋料理。実習のある日は、朝一番に調理室へ来て、授業時間内に終われるよう準備に取りかかります。外来の先生が教えてくださる中国料理の授業もサポート。授業後は、実習の献立を決めたり、西洋料理と中国料理の食材を発注したりと、デスクワークにも励んでいます」
調理部の活動
調理部の顧問も担当。近隣のアンテナショップでケーキやプリンなどのお菓子を販売したり、地域のイベントに出店して焼き菓子や屋台料理をつくったり、お弁当を卸したりと、さまざまな課外活動を行ってきた。
調理部の活動
「自分なりに勉強しながら、お菓子の指導もしています。以前は日本料理の授業をサポートすることもありましたし、この仕事には、西洋料理、中国料理、日本料理、すべての知識や技術が大切になってくる。専門学校時代で学んだ和洋中の基礎が、今とても役立っています」
調理部の活動

テレビを観て憧れた料理人のようになりたいと、彼らに学べる専門学校へ。

1964年、福岡県生まれ。給食調理員だった母親は、贅沢な品ではないものの、毎日心を込めた料理を食べさせてくれた。そのおかげで「食べることに興味をもつ、食いしん坊な子どもだった」と振り返る。
「午前中で学校が終わる土曜のお昼には、冷蔵庫にあるものでご飯をつくるのが楽しみでした。牛肉の細切れがあったら、最初は醤油で焼くだけだったのが、だんだん砂糖やら具材やらを足して、すき焼き丼っぽくしてみたり。試行錯誤を経て、おいしくなるのがうれしかったです」
しかし料理人をめざすという発想はないまま、進学校だった高校へ。幼い頃から絵を描くのが好きだったこともあり、美術教諭への道を考えていた。そんななか運命を変えたのが、当時放映されていたテレビ番組「料理天国」だった。
「毎回すごい料理がいっぱい出てきて、とにかくおいしそうで…。なかでもフランス料理に惹きつけられました。食べたことはないけどおいしそうだし、つくっている人たちはかっこいいし。すべてに憧れ、自分もこんな料理人になりたいと気持ちが固まりました」
出演していた料理人たちは、調理師専門学校の教員でもあった。そこで学べば彼らのようになれるかもと進学を決意。大学進学を勧めていた両親を説得するのは大変だったが、最後は応援してくれたという。

すべてが新鮮だった専門学校時代。意識の高い友人に恵まれ、切磋琢磨できた。

専門学校時代は授業も寮生活も楽しかった。全国各地から集まって来た意欲の高い友人に恵まれ、「負けたくない」と切磋琢磨できた。
「テレビで観ていた先生たちが大勢いらっしゃって感激。見るものすべてが新鮮で、人よりたくさん覚えようとなんでもノートにとって頑張りました。先生方がつくった料理の試食が楽しみで、毎日、最前列に席をとるのに必死でした。寮に帰ると、実技テストに向けて、毎日大根のかつらむきをしたり、オムレツをつくったり。週末は包丁を研ぎながら、寮の友人たちと夢を語って盛り上がりました。当時の友人とは、今でも連絡を取り合っています」

ホテルの料理長をめざして地元で就職。厳しい先輩方が基礎から教えてくれた。

卒業後は、地元の福岡へ。1年間の専門学校での学びを経て、ホテルの料理長が目標になっていた。
「テレビで観ていた小川忠彦先生や水野邦昭先生に加え、外来講師だったホテルオークラの小野正吉シェフや帝国ホテルの村上信夫シェフらの凛々しい姿に憧れていたんですよね。それでもう、ホテルニューオータニ博多に絞って面接を受け、就職が決まりました」
1984年の就職当時は、ホテルが多忙を極めていた頃。先輩方は厳しかったが、しっかりと基礎から教えてくれた。
「宴会調理から始めたものの、とにかく量が多くて、早く動かなければ間に合わない。入社当初は、場違いなところに来たなと思うぐらい先輩方が怖かったんですけど、なにくそと奮起しながら頑張りました。後になって気づいたんですが、実は一番厳しかった先輩が、自分のことを一番気に懸けてくれていたんですよね」
100kgほどの肉をミンチにして、ひたすら野菜を切り、1,000人前のコンソメスープを仕込む。ホテルオータニでは、確かな基礎技術を要する大量調理を素早く行うことが求められた。
「1,000人分の料理も、すべて一人前ずつの皿盛りにしていくので、みんなでやり切れたときの達成感がすごいんですよ。自分の技術やスピードが徐々に上がっていくのも面白かったです」

志望したホテルで人を動かす仕事を経験し、上に立つ難しさを実感した。

何年かするとメインダイニングであるレストランに移り、20代で一通りの持ち場を経験。コンクールにも挑戦し、大きな料理コンクールで入賞を果たす。
第7回日経レストランメニューグランプリ A部門賞授賞
「20代で何かしら取っておきたかったので良かったです。コンクールに向けた技術を先輩に教えてもらえたのも、ありがたかったです。パリの最高級レストラン、『トゥールダルジャン』の世界唯一の支店ができ、東京のニューオータニにも研修に行けました。成長の機会をたくさん与えてもらえたことに感謝しています」
30代になると、冷たい前菜や温かい前菜、肉料理など、各部門のセクションシェフを歴任。レストランのスーシェフ(二番手のシェフ)やコーヒーショップのシェフも経験した。
「人を動かす仕事を経験し、上に立つ難しさを実感しました。同じチームでも相性の良し悪しあるけれど、そればかり考えていたら仕事になりません。足らないところにアドバイスしたり、自分が入って補ったりしながら、円滑に回るよう調整。管理する規模が大きくなるにつれ、チームを統率するのも難しくなっていきましたが、それだけにオペレーションがうまくいき、クオリティの高いものを提供できたときは、大きな喜びを感じました」
指揮する苦労は、現在、高校で行っている実習の班構成に似たようなところがあるとのこと。
「実習の班構成は、毎回シャッフルさせています。まだ未熟な高校生の場合、固定メンバーにすると、同じ役割で安心して、成長しづらくなってしまいますからね。なかには相性が悪いという生徒もいますが、『一緒は嫌だ』では社会に出て通用しない。誰と組もうがチームワークが成り立つよう、細やかなフォローを心がけています」

目を輝かせて料理をし、生徒が上手くつくってくれると感動もひとしお。

やがて20年以上が経ち、転機が訪れる。
「熊本のホテルに行った先輩から、自分が退職したら料理長をやってくれと声をかけてもらったんですよ。それで23年間勤めた会社を辞めたんですが、半年ほど勤めても機会が訪れなくて…。何回も交渉したんですが、よそから来た自分をいきなり上げるのは難しかったようで。風が吹いてこなかったんだと諦め、福岡へ戻りました」
そんな折に見つけたのが、短期大学で調理を教える非常勤講師の仕事だった。
「専門学校で先生方に憧れていたのに、そのときに初めて『教える仕事もあるんや』と思ったんですよね(苦笑)。美術教諭をめざしていたこともあり、人に何かを教えたいという気持ちが頭のどこかにあったみたいで、調理なら自分でもできるんじゃないかなと挑戦することに。『先生、これおいしいです!』と言われると、『これって小川先生じゃん!』と有頂天になり(笑)、どんどんのめり込んでいきました」
教育に新たなやりがいを見いだし、調理に関するより高い知識や技術を有する証しとなる国家資格、専門調理師を取得。調理師養成施設での常勤を志望していたところ募集を見つけ、2010年、杉本高等学校の教員となる。
「専門学校や短大と違い、高校生はまだ職業意識がはっきりしていてない。その違いが大きかったです。誰もが最初から高い意欲を持っているわけではありませんが、やがて料理の面白さに目覚めていってくれる。目を輝かせて料理をし、真剣に味わっている姿を見ると、たまらなくかわいいです。教えた料理を生徒が上手くつくってくれると感動もひとしお。僕が言ったことが、きちんと伝わったんだとうれしくなります」

一人ひとりの個性をいち早く把握。料理の楽しさを少しでも味わってほしい。

数年後には、家庭科の教員免許を取得。理論も実習も一人で担えるようになり、クラス担任や学年主任、生徒指導部の部長などにも就けるようになった。
「何かがあって叱ったときにヘソを曲げてしまう生徒もいますが、ご機嫌を取ったりはしません。僕は間違ったことを言っていないから、あとは自分で考えて、良かったら一緒にやろうといった形で、生徒の自主性を促しています。そうすると、自然に戻ってきてくれるんですよ。褒めて伸びる生徒もいれば、ガツンと言って伸びる生徒もいる。一人ひとりの個性が全然違うから、それを早く把握できるよう心がけています」
授業中は生徒とアイコンタクトをとり、うまくできていればグッドのサインを送る。すると生徒もうれしそうな笑顔で返す。
「料理の楽しさを少しでも味わっておいてほしいんですよね。チームワークとコミュニケーションが大事なのは、ホテルの厨房も学校も同じ。生徒と一対一で向き合い、お互い理解し、そのうえに信頼関係を築くことがとても大切です。そのためにも、筋を通してきちんと話し、絶対に嘘はつかない。もし自分が間違っていたら、すぐに謝りに行く。上下関係ではなく対等に接すれば、向こうも真剣に向き合ってくれるんです」
「ケンカのように言い合いになった生徒ほど、卒業後も学校へ顔を出してくれる」と笑う壇さん。
「すごくうれしいですよ。あのときは本当に世話がかかったなと、笑い話になりますし。3年間の学びを終え、卒業していく姿を見ると感動します。これまで卒業生を3回ほど送りだしましたが、みんなよく学校へ遊びに来てくれる。それぞれに近況を報告してくれるのが、大きな楽しみになっています」

料理のスタイルやジャンルは違っても、人を喜ばせたいという目標は同じ。

一人ひとりの進むべき道は、生徒自身もわかっていないことが多い。本人の志望を引き出し、生徒が望む位置に導くために、多くの会話を重ねるよう努めている。
「何が好きなのか、どうなりたいのか、言っていることと本音が別の場合だってある。本当はどうなのかを見誤らないために、できるだけ多く一人ひとりと話すようにしています。就職しても仕事に負けず頑張れるよう、授業中に現場の話もたくさんする。そのためにも、ときどきニューオータニ博多にも顔を出し、新しい情報を仕入れて、今のホテルや業界はこんな感じだと伝えています」
ホテルの料理長をめざすなかで、「教える」という天職に出会えた壇さん。
「生まれ変わってきたとして次に何をするか。やっぱり料理人だと思うんです。じゃあ、どんな料理人になるのか。『人を笑顔にする』と言ったらありきたりですが、誰かの心に響く、影響を与えられるような、優しい料理をつくる人になりたいですね。今は教職として、食べることを通して人を幸せにしたいという気持ちをもった料理人を、地元福岡で育てたいんです」
少しの憧れから始めても、一生懸命、取り組み続けることで、見えてくる世界がある。これから進む道を決めていく人たちに、壇さんはこんなエールを送ってくれた。
「世の中にはたくさんの料理がある。至高の一皿も、病人食も、いろんな食がありますが、みんなおいしいものを食べると笑顔になり、元気になります。料理のスタイルやジャンルは違っても、人を喜ばせたいという目標は同じ。料理をつくる仕事は、命にかかわる職業です。食の業界は、自分の可能性も夢も広げてくれますよ」

壇 和幸さんの卒業校

辻󠄀調理師専門学校 launch

辻󠄀調理師専門学校

西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ

食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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