No.093
料理人から転身する葛藤を経て、家業だった水産物の仲卸業を継承。フランスでの修業経験が、料理人が求める食材提供として実を結んだ。
カネナカ水産株式会社 代表取締役
中井一統さん
profile.
和歌山県出身。和歌山県立和歌山工業高等学校を卒業後、家業である仲卸『カネナカ水産』を手伝う。1年後、エコール・キュリネール大阪あべの(現在のエコール 辻󠄀 大阪)へ進学し、フランス・イタリア料理を専攻。辻󠄀調グループフランス校へと進み、1994年に卒業後、フランスのレストランやパティスリーなどで約8年間の修業を経験。2007年にカネナカ水産株式会社の代表取締役となる。2018年にはタイで現地メンバーとの共同出資により同業の法人を設立。
access_time 2019.06.14
後を継ぐ必要はない。自分の好きなことをやればいいと育てられた。
「長男ですが、弟が継ぐ予定でした。両親ともに自分の好きなことをやればいいと言ってくれていましたので、自分もそのつもりで過ごしていました」
和歌山市中央卸売市場に店を構える『カネナカ水産』。大卸売業者から水産物を買い取って卸売りする仲卸業者だ。約100年前に創業した曾祖父の店の分家として、祖父から両親へと受け継がれた。生まれたときから“魚屋の長男”だった中井一統さん。両親は深夜から夕方にかけての仕事なので、幼い兄弟は、近所で旅館の女将をしていた祖母のところで寝泊まりすることが多かった。
「小さいときの遊び場が板場で、遊び相手が料理人さんたちだったので、専門職への憧れはあったと思います。それで工業高校の土木建築科に進学したものの、想像を超える理系的な壁にぶつかりまして(笑)。大学で学びたいことがあるわけでもない。高校卒業後、ひとまず両親のもとで働き始めたんです」
朝は早いし、体力的にもきつい。市場での仕事は嫌でたまらないものだと思っていたが、いざ働き始めると、面白さを感じるようになった。
「大人ばかりに囲まれ、刺激的だったんですよね。学生から抜けて、自分も少し大人になれた気がして、うれしさもありました。魚をさばく練習もしたんですが、母親がガンガンやるタイプで(笑)、包丁をもたせると職人さん並み。父親は父親で、まわりから一目置かれるぐらい目利きが鋭くて。働いているうちに、両親に対する見方も変わりました」
エコール・キュリネール大阪あべの(現在のエコール 辻󠄀 大阪)時代
本場でフランス料理を学びたい。進学後に人生初の目標ができた。
1年間のアルバイト生活のなかで、専門職業人として食の世界でチャレンジしようと気持ちを定め、調理師学校への進学を決めた。そもそも日本料理と魚に慣れ親しんできたバックボーンがある。しかし選んだのはフランス料理だった。
「テレビ番組『料理天国』の影響もあって、フランス料理が、ものすごくかっこよく見えたんですよ。出演されていた先生が皆魅力的で」
エコール・キュリネール大阪あべの(現在のエコール 辻󠄀 大阪)時代
こうしてエコール・キュリネール大阪あべの(現在のエコール 辻󠄀 大阪)へ。入学後、フランス校へ進学できることを知ると、「せっかくなら本場へ行って学んでみたい」と考え、フランス語の授業も選択して準備を進めた。
フランス校卒業アルバム
「専門学校に進学して、急に人生初の目標ができたんですよ。それまで料理の経験もなかったですが、憧れのフランス料理は実際につくってみても面白かった。知らないことだらけですし、何もかもが新鮮。高校のときとは違い、早い段階で料理人になりたいと決意し、それまでの自分からは考えられないほど授業も真面目に受けていました」
フランス校卒業アルバム
1年間の課程を経て進んだフランス校は、とにかく楽しかった。見るものすべてに心を動かされ、「来て良かった」と心底感じたという。
「フランス人の食に対する意識、いかに食を大切にしているか体感できたのは大きかったです。卒業後もフランスで修業をしたい。そう考えるようになりました」
フランスのホテル格付け最高位「パレス」の『ル ブリストル パリ』のグランシェフ エリック・フレション氏と
フランスでの8年間の修業を経て、タイへと渡るつもりが不可能に…。
帰国してから半年ほどで受け入れ先が見つかり、再び渡仏。南仏に始まり、各地の店舗で学ぶ4年間を経てパリへ。およそ8年間、フランスで修業を重ねた。
「パリでは5店舗ほど回ったんですが、レストランでは、あえて肉やお菓子などのポジションを希望し、パティスリーでも働きました。魚に関しては、フランス人より早く上手にさばけるので(笑)。あらゆることができるようになりたかったし、知識としても知っておきたかったんです」
パリのパティスリー 「ローラン デュ シェンヌ」時代
ゆくゆくは自分の店をもちたい。そう漠然と考えながら修業を続けているうちに、思いがけないオファーがあった。当時三つ星だった『ル・ジャルダン・デ・サンス』が進出するバンコクの店舗で働かないかというものだった。
「もちろん本国からフランス人シェフが行くんですが、現地で雇うタイ人との調整役のようなポジションで入ってくれないかと頼まれて。三つ星の海外初出店なんて中々経験できることではないと思ったので、喜んで引き受けました」
しかしその後、タイで鳥インフルエンザが発生。ビザがおりず、日本へ帰ることとなる。
「それでも先方とやり取りは続け、母が友人と共同経営で始めたカフェで働いたり、市場での仕事を手伝ったりしながら、渡航できる機会をうかがっていました。だけど養鶏はタイの重要な産業。それが全滅したせいで、外国人を雇う余裕が国になくなったんですよね。雇用の条件がものすごく厳しくなり、結局流れてしまったんです」
相次いで亡くなった両親…
葛藤した末に家業を継ごうと決意。
帰国から約2年。東京にあるフランス料理店への紹介話がもちあがった矢先のこと。
「母の容態が急に悪くなり、末期の胃がんだとわかったんです」
十数名いる従業員、何十件とある得意先…。その整理はつけなければならない。親族にも乞われて代表に就き、なんとか仕事をこなしていった。そして母親の死から2年。
「今度は父が亡くなったんですよ。それで叔父から『もう義理もないだろうから、辞めて好きなことをやればいい』と言ってもらったんですが…『続けます』と答えました。自分のやれるところまで挑戦してみようと決心しました」
『カネナカ水産』では、母親がスーパーなどの量販店、父親が料亭向けと、役割分担をして動いていた。しかし両親の抱えていた顧客は、みるみる離れていく。
「老舗ブランド店は別として、お客さんは看板ではなく人についている。母が死んだときも、父が死んだときも、それを痛感しました。引き継いだものの、売上げは激減。量販店との両輪は無理だと判断し、料理店に向けた発信に絞るようにしたんです」
料理の知識があるからこそ、料理人が求める魚の提案や提供ができる。
突破口のカギとなったのが、学生時代や修業時代に築いた人脈だった。かつて撒いた種が、徐々に実を結んでいくこととなる。
南洋キンメ(ヒラキンメ)
「父のように和歌山県内で特殊な商品を売るのは難しいと思ったので、東京へ営業に行ったんです。まず向かったのが、当時白金にあったフランス料理店『カンテサンス』(現在は品川)。岸田(周三)シェフとは同時期にパリにいて、共通の知り合いがいたんで、魚20kgを持って行き、サンプルとして置いて帰ったんです。そこから周囲に伝えてくださり、どんどん東京のお客さんも増えていって…。質の高さに自信がもてるきっかけになりました」
一本釣りイトヨリ
現在、一番の得意先となった『ひらまつグループ』との出会いも、縁を感じるものだった。
『ひらまつグループ』のメンバーの方々が来社。 左端がフィリップ・ミル氏(M.O.F.)、隣が長谷川幸太郎氏(現在は独立され『KOTARO Hasegawa DOWNTOWN CUISINE』オーナーシェフ)
「2年後に大阪で出店するという新聞記事を2010年に見て、開業したら取引してくれませんかと売り込みました(笑)。もちろん即答されるはずもなかったんですが、その後も周囲に『ひらまつさんと仕事がしたい』と言い続けていたら、話がつながって現実になりましたからね。希望は口に出したほうがいい。『そういえばあんなことを言っていたな』と誰かが思い出してくれ、かなう可能性も出てきますから」
一本釣りマルアジ
現在、県外の顧客リストは70件ほど。専門学校の同窓生やフランスで同時期に修業をしていた人、そこから派生した客筋も少なくない。彼の目利きを信じ、魚種を任せてオーダーしてくるレストランも多い。
活き締めホウボウ
「どう使えばいいのか、どんな料理にすればいいのかなど、説明や提案をしてくれるから助かるとよく言われます。料理人から信頼され、喜ばれるのはうれしいこと。東京のお店も、豊洲(市場)が目の前にありながら、うちに注文をしてくれるのはありがたいですね。料理の知識があるからこそ、料理屋さんにうまく説明し、販売することができる。昔は料理人からの転身に葛藤もありましたが、今では『自分は料理を理解し、しっかりと料理人に寄り添った魚屋になるために、フランスで料理を勉強したんだ』と思えるようになりました」
海外でも鮮度や質の高さが喜ばれる和歌山の魚。新たな販路の開拓へ。
県外へ出荷している延長線上で、輸出もスタート。2018年には、タイで現地メンバーとの共同出資により同業の法人を設立した。
「15年ほど前、タイで働かないかという話があり視察に行ったとき、ものすごい成長を肌で感じました。いつかこの国と仕事するかもと思っていたら、実際そうなったんですよ」
取引先は日本同様、西洋料理の店が多い。その鮮度の高さは、海外でも喜んでもらえるという。
「航空運賃のコストをかけると、値段が3倍にもなるのに、それでも需要はありますからね。関西空港が近いアドバンテージもある。営業に行くと『今頃始めたって遅い』と言われるんですが、サンプルを置いていくと『ぜひお願いしたい』と話が変わる。それも大きな自信になりました」
タイでのビジネスパートナーたち
一方で「待っていたよ」と歓迎されることもある。「日本の魚が入ってきているのは知っているが、どこにオーダーしていいかわからなかった」という声も聞くそうだ。
「海外から出店してきている店舗のレベルも上がり、食材に対する目も厳しくなってきています。日本人でありフランス料理をやってきたことも信頼につながっていて。タイのほかにも、カナダや中国からも要望が来ています。ゆくゆくはタイを拠点に、ラオスやミャンマー、カンボジアなど、東南アジア諸国にも広げていきたいですね」
海外へ出たことで、生まれ育った地元・和歌山の良さがわかるように。
『カネナカ水産』の商品は、多岐にわたる。地元和歌山のネットワークを活かし、料理人が求める様々な食材を取り扱い、コーディネートもおこなっている。
「鮮魚以外のものに関しても相談を受けることが多くなりました。10年ほど県内を探し、自信をもって勧められる品質を提供いただける生産者さんとの関りも強いので、しかるべきところを紹介するようにしているんですが、お肉から取引が始まり魚もご注文いただくようになったところもあります。魚以外を扱ううえでも、料理修業の経験が活きてきています」
Wakayama foodie'sメンバー(最前列右端が中井さん)
和歌山の生産者たちを中心としたグループ「Wakayama foodie's」など、地域に貢献する活動にも積極的に参加。「個々で動くと限界がある」と中井さんは語る。
「生産者それぞれのチャンネルがあるので、みんなで和歌山の物産をもっと広く発信しようと努めています。別ジャンルの人たちとの情報交換によって、商圏が広がる可能性だってありますからね。お肉を買ってくれた方が良かったとクチコミしてくれたら、それが魚につながるかもしれませんから、まずは和歌山という土地に目を向けてもらうことが大切だと考えています」
「また、『ヴィラ・アイーダ』の小林寛司シェフ、『オテル・ド・ヨシノ』の手島純也シェフといった実力派のシェフにも、魚はもとより、西洋野菜や、牛や豚、ジビエなど和歌山の食材の魅力を積極的にご紹介いただき、大変心強く感じています」
外に出ることで逆に地元の良さもわかるようになった。フランスへ行った理由のひとつに、「和歌山にいたくない」という思いも心の奥にあったと振り返る。
「生まれ育った土地なのに、和歌山の良いところを何も気づいてなかったんですよ。いろんな外国に行って、外からみてようやく『和歌山ええやん』と思えるようになりました(笑)。あとから気づくことも多いので、若い頃はとにかく吸収することが大切。『若いうちは食べまくれ』という、辻󠄀調の入学式で聞いた辻󠄀静雄元校長の言葉が、今でも耳に残っているんですよ。味覚って、五感のなかで一番ばかなんです。病気にかかれば鈍るし、体調にも感情にも左右されます」
「何を食べても、おなかが減っていたらおいしいし、怒っているときはおいしくない。だから自分の舌に味の情報をインプットしておけと。…私のように思いがけず道が決まることもある。だけど食に関わる仕事は幅が広いので、全力で食べて全力で学んでおけば、後々きっと活かされてきますよ」
「好きな格言に『パリで生まれ育った人をパリジャンというのではない。パリで生まれ変わった人のことをパリジャンというのだ』というのがあるのですが、体験してきた環境によって想いを強く持ち、変化することに覚悟を決めるときがあると思うんです。魚屋の家に生まれ魚屋になったことで、元のさやに納まったと思われることも多いのですが、自分としては、『魚屋になる』と決めた瞬間があって、大きな決意を持ったつもりです。そうすることで、道が大きく開けました。若い方も『これをやりたい』『こうなりたい』という気持ちが湧いてきたら、是非、全力でチャレンジしてほしいと思います。
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