INTERVIEW
No.094

自ら野菜を育て、山菜を採り、狩猟に出て、肉を加工する…。北海道・真狩村で、自然の恵みを最大限に活かし、気持ちが伝わる料理に。

マッカリーナ シェフ

菅谷伸一さん

profile.
北海道出身。大阪・辻󠄀調理師専門学校を1978年に卒業後、札幌グランドホテルへ。約5年間の勤務を経て上京。東京のレストランで経験を重ね、1985年ラパンフーヅに入社、札幌のフランス料理店『モリエール』で働く。1987年に渡仏し、『タイユヴァン』『ラシエット・シャンプノワーズ』『ル・ムーラン・ドゥ・ムージャン』といった名店で3年にわたり修業。帰国後、ラパンフーヅに再入社。1997年に真狩村へ移住し、オーベルジュ『レストラン・マッカリーナ』の創設シェフとなる。農林水産省主催「料理マスターズ」で2013年度ブロンズ賞を受賞。
access_time 2019.07.11

世界中の人たちが料理を味わうために訪れる、北海道のオーベルジュ。

札幌から車でおよそ2時間、「蝦夷富士」とも呼ばれる羊蹄山の南麓に位置する北海道・真狩村(まっかりむら)。そんな人口2,000人ほどの小さな村にありつつも、世界中の人たちが"わざわざ"足を運ぶオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストラン)が『マッカリーナ』だ。シェフを務めるのは菅谷伸一さん。美しい湧き水と豊かな土壌に恵まれ、季節の農産物が瑞々しく育つこの土地で、自らも食材づくりに携わっている。
マッカリーナから羊蹄山を望む
「少し上がったところに畑があって、毎年5月にみんなで行って準備するんですよ。豆のラインは前期後期で分けて、キャベツは虫がつかないようネットをかけて…無農薬だから大変だけどね。25~26種類かな、順番に植えていって。ほとんどの食材は地のものでまかなえます」
収穫時期は、6月後半から10月初頭まで。畑を片づけ始める頃に、10月1日の狩猟解禁日を迎えるのが年間のサイクルなのだという。
自分たちで耕すマッカリーナの畑
「鴨は1月いっぱい、鹿は3月いっぱいまでぐらいかな。10年ぐらい前、たまたま知り合いが狩猟の免許を取ったもんだから、俺も受けに行ったんですよ。すごく難しいけどね。食肉をやってるハンターに習って、処理もぜんぶ自分でやって。持って帰ってからは、スタッフにもさばいてもらう。内臓の構造とか部位による微妙な違いとか、勉強になるからね」
ONESTORYより転載 
詳しい人たちに教えを請い、山菜やきのこも採りに行く。道内の豚を使って、生ハムやソーセージも自分たちでつくる。素材にこだわる料理人にとって、ひとつの理想郷とも言える食の舞台がそこにある。
「やっぱり料理は素材ありき。そう思わせてくれたのは、真狩村が生みだす素材の力強さのおかげですよ」
自家製の生ハム
「生産に携わることで、若い子たちが食材に興味を持ってくれるのも、この環境のありがたさ。自分で育てたもの、集めたもの、つくったものを使うと、すごく大事にもしてくれるからね。今年のアスパラは味が濃いだとか甘味が強いだとかを感じながら調理できるし。昔は腕さえあれば…と思ってたけど、いくら腕があっても素材が良くないと、本当に素晴らしいものはできない。ただ、良い素材を使ったとしても、それで人を感動させるものができるかどうかは、料理人次第なんだけどね」

漁師の家に生まれ板前をめざすも、フランス料理に衝撃を受けて転身。

1958年、北海道の釧路で漁師の息子として生まれた菅谷さん。小学5年生頃から母親の手伝いで料理をつくるようになると、泊まりに来た友人らに手料理を振る舞うなど、喜ばれる楽しさを覚えるようになった。
「『前略おふくろ様』(料亭が舞台のテレビドラマ)を見て憧れ、板前をめざすようになったんです。そしたら同じ高校の先輩が、自分はここに行くんだと辻󠄀調(辻󠄀調理師専門学校)を勧めてくれて。母親の実家が奈良だったこともあり、大阪だったらいいよと言ってもらえて、進学を決めたんですよ」
家業もあってか、日本料理の料理人になることを親族も歓迎してくれていた。しかし進学後にフランス料理界の巨匠、ジョエル・ロブション氏の料理にふれて、方向性が一気に変わる。
「ものすごい衝撃を受けたんですね。ちょうどロブション氏がM.O.F.(フランス国家最優秀職人章)を取って、日本へ来たときで、助手がホテルオークラの総料理長だった小野(正吉)先生っていう豪華さ。まだ覚えているよ、エクルヴィス(西洋ザリガニ)でナンチュア(ソース)をつくってたの。その頃は、まだフレンチってそこら中にあるもんじゃなく、未知の世界だったからもう一気に引き込まれて。新しいものに挑戦してみたいって思ったんです」

北海道から東京へ。修業を重ねるほどに、フランスへの想いが募った。

卒業後は札幌グランドホテルへ。そこで出会ったのが、後に札幌のミシュラン三つ星店『モリエール』のオーナーシェフとなり、『マッカリーナ』も含めた北海道にある5つのレストランを営むことになる、中道博さんだった。
「フランスで経験を積んできた人だったから、現地のことをいろいろ教えてくれて、すっげぇなと感じたんです。今じゃ常識だけど、フォアグラのテリーヌなんて当時は知らなかったからね。やっぱり外の世界を見なきゃなって」
テーブルからも料理人の様子が伺える
そして5年間の修業を経て東京へ。いくつかのレストランを回り、自身の未熟さを思い知った。
「なかでもすごいシェフがいてね。いろんな三つ星店を回ってきた人で、頭のなかが全部フランスなんだけど、自分にはその土台がないから『なんでわからないんだ!』ってしょっちゅう怒鳴られる。ただ、めちゃくちゃ勉強にはなりましたよ。本でしか見たことのないような料理を提案してつくってもらったり、使い方のわからない洋野菜をわざと買ってきて、怒られながら(笑)教えてもらったり。だけどやっぱり、自分もフランス行かなきゃダメだなって痛感したんです」

現地で見たかったのは、フランス料理がどう成り立っていったのか。

上京して約2年が経った頃、独立開業する『モリエール』を手伝ってほしいと中道シェフに声をかけられたため、北海道へと戻りラパンフーヅへ入社。1年ほど勤め、ようやくフランスへと渡った。
「先輩の紹介でパリ郊外のレストランに行ったんだけどさ、言葉の壁がすっげぇあって。わからない分、先を読まなきゃならない。誰かが動いた瞬間に、これが要るだろうと用意したり。そうしないと仕事にならないからね」
それからはフランス語も学びつつ、世界最高峰の『タイユヴァン』をはじめ、数々の名店を渡り歩き、シェフの信頼を手に入れていく。後に三つ星となる『ラシエット・シャンプノワーズ』では肉料理を担い、『ル・ムーラン・ドゥ・ムージャン』では、日本人全員が仕込み作業を担っているなか、到着したその夜から魚料理を任された。菅谷さんがメニューを構成したことで初めて星を獲得したレストランからは、このまま留まることを懇願されたという。
「とにかく毎日が必死で、あっという間でしたよ。現地で見たかったのは、フランス料理がどう成り立っていったのか。店だけじゃわからないから、向こうでできた友だちの家に行ったりしてね。ブルターニュの田舎では、そこのお母さんに家庭料理を教えてもらったり、お父さんがムール貝を捕りに行く海へついていったり。『今日はムール・マリニエール(ブルターニュの郷土料理)をやるぞ!』なんて日常を体験しながら、『だからこの地方でこの料理が生まれたんだ』とか実感できたのは大きかったな」

料理はすべてつながっていくもの。つなげるためには積み重ねが重要。

帰国すると、北海道を拠点とするラパンフーヅに再び入社。その後も東京にあるレストランの立て直しを任されたり、中道シェフの知人が手がけるフランスのオーベルジュを手伝いに行ったりと、忙しく飛び回った。そんななか、『マッカリーナ』創設の話が持ち上がる。中道シェフがその自然の恵みに惚れ込み、菅谷さん自身も食材を仕入れに何度も足を運んでいた真狩村への移住。二つ返事で快諾し、1997年6月、その歴史をスタートさせた。
「ここに来てから、自分がつくる料理も変わりましたね。食べてもらいたいものをドンと出すような感じで、大胆になった。辻󠄀調時代、材料をものすごく大切に扱う先生がいたんだけどさ。職人さんって感じで、丁寧に処理していく人で。あのとき一個一個きちっと教えてもらえて良かったなって、今になって改めて思いますよ」
開業の翌年からは、生産にも着手。ほしいものを、必要な分だけ、それぞれの料理に合わせた大きさや品質でつくるためには、自分たちで手がけるのが最適だった。
「農家さんに協力してもらって、作り方を教えてもらったり、堆肥を分けてもらったりしながら、徐々に形にしていった。毎日畑へ行ってるから、これぐらいの大きさになったらあの料理に使おうとか考えられるしね。料理の発想も手法も、すべてはつながっていくものだけど、つなげるためには知識や経験が必要。コツコツ積み重ねることが重要になってくるんですよ」

料理人に最も必要なのは愛情。気持ちを込めれば、それが伝わる。

「最近、若いスタッフたちに、いろんな地方菓子を焼かせてるんだけどね。たとえば牛がいない地方だからバターがとれず、オリーブオイルを使っているんだとか、根本を知るのってすごく大事だし、知ればもっと楽しくなる。そのためにも外の世界に出て、いろんな人に会い、いろんな話を聞きながら、理解していってほしいなって」
現在も日本全国、世界各地を飛び回り、ジャンルを問わず食べ歩きを続けている菅谷さん。すでに料理人としての到達点にたどり着いているかのように見えるが、まだまだ学ぶことはたくさんあると言う。
「自分の料理に活かすための勉強、って意識でもないんですよね。和洋中関係なく、良いものは吸収しようとするけどさ。単純に食べることが好きだし、すごくおいしいなと感動できるのは幸せなこと。最終的には、自分で食べておいしいと感じるものを、何料理という分野なしにつくってみたい。今ももろみで塩味をつけたり、甘酒で甘味をつけたりしてるんだけどね。和のテイストを入れる場合も、『この料理には、ここの醤油』ぐらいに突き詰めていけたら楽しそうでしょ」
キャリアを積んでなお、料理への好奇心は増すばかり。原動力になっているのは、お客様により良いものを提供したいという気持ち。料理人に最も必要なのは愛情だと、菅谷さんは断言する。
「大好きな人に食べてもらうなら、ちゃんと味見もするし、一生懸命つくるでしょ? 当たり前のことだし、どんな仕事にも共通するだろうけど、料理はとくにそれが伝わりやすいんだよね。お客様に出すギリギリまで諦めない姿勢は、料理人である限り忘れないでほしい。悩みながら工夫を重ねた気持ちってちゃんと伝わるものだし、気持ちの伝わった経験が、また次への原動力になるからね」

菅谷伸一さんの卒業校

辻󠄀調理師専門学校 launch

辻󠄀調理師専門学校

西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ

食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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