No.096
フランス料理の真髄を次代へつなぎ、可能性を広げていくために―。大切なのは、技法と解釈を柔軟に変えながら本質を伝えていくこと。
プレスキル シェフ
佐々木康二さん
profile.
岡山県出身。辻󠄀調理師専門学校を1986年に卒業後、岡山国際ホテルに就職。ルクセンブルク・インターコンチネンタル ホテルでの修業を経て、1988年、神戸ポートピアホテルの『アラン・シャペル』へ。上柿元勝氏に師事し、1992年には長崎・ハウステンボスのフランス料理レストラン『エリタージュ』に転職。パリのホテルクリヨンなど、ヨーロッパでも研修を重ねる。2008年、「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」の日本代表に選ばれ、アジア・パシフィック大会でも優勝。同年、神戸ポートピアホテル『アラン・シャペル』へと戻り、同所『トランテアン』の開業にも尽力。2015年10月、大阪・淀屋橋に開業したフランス料理レストラン『プレスキル』のシェフに就任。現在に至る。
access_time 2019.07.26
素晴らしいシェフや料理に魅了され、フランス料理の道を志した。
“現代フランス料理の父”と称されるポール・ボキューズ氏が創設した、フランス料理における世界最高峰の競技会「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」。2年に一度、30年以上にわたり開催されているこのコンクールで、2008年、日本代表に選ばれ、アジア・パシフィック大会でも優勝を果たしたのが佐々木康二さんだ。1967年、岡山県倉敷市生まれ。現在は大阪・淀屋橋のフランス料理店『プレスキル』でシェフを務める彼がフランス料理と出会ったのは、テレビを通じてのことだった。
「児島という地区で生まれ育ったんですが、当時はファミレスもハンバーガーショップもなかったですからね。『料理天国』という番組で初めてフランス料理を知って、めちゃくちゃかっこいいなと(笑)。その料理監修をしていたのが辻󠄀調理師専門学校だったんですね。それで、高校卒業後は大阪の辻󠄀調理師専門学校へ入学。番組に小川(忠彦)先生とポール・ボキューズさんが出ていたことを今でも覚えていますよ」
辻󠄀調理師専門学校
フランス料理に限らず、実習はいずれも楽しかった。当時注目を集め始めていたイタリア料理と悩みかけるも、二つの決定打により道が定まったという。
「特別授業で小野正吉さん(ホテルオークラ東京初代総料理長)がいらっしゃったんですけど、先代の(辻󠄀静雄)校長が付き添うなか、小川先生、水野(邦昭)先生と、大御所の主任教授が脇を固めていて、いつもと雰囲気が全然違うんですよ。そのとき小野シェフが、牛フィレ肉のロッシーニにかけられたトリュフソースの香りをかいで『OK』とおっしゃったのを見て、『すごい!こうなりたい!』と思ったんですよね(笑)」
右側はコミ・ド・ランの安藤孝彰さん 前週公開の安藤さんの記事もご覧ください
「もう一つは、三國(清三)シェフが出された『皿の上に、僕がある。』という本を見て、衝撃を受けたこと。スタイリッシュでカラフルな料理写真の数々に魅了され、やっぱり絶対フランス料理にしようと心に決めました」
初めての海外で肉料理にも挑戦。自ら動き、一歩前へ出られるように。
小野シェフへの憧れもあり、ホテルで技術を高めようと、岡山国際ホテルに就職。まずは宴会料理の仕込みから始まり、早くフランス料理を手がけたいと願っていたところ、秋頃にチャンスが訪れる。
「M.O.F.(フランス国家最優秀職人章)のジャン・ギノーシェフが来日され、全国各地をフェアで回り、岡山国際にも来られたんです。そのとき初めて目の当たりにする手法に、いちいち感動して…。シェフについていくことになったという先輩に声をかけてもらい、ルクセンブルクにあったインターコンチネンタル ホテルの中のレストランで修業できることになりました」
現地では、前菜や付け合わせだけでなく、自ら名乗りでて肉料理も手伝わせてもらった。まだまだベースができていないことを痛感する一方で、仕事を覚えること以上の経験を得たと振り返る。
「物怖じしなくなりましたし、一歩前へ出られるようにもなりました。なんでも自分から動かなければ始まらない。メンタルは相当鍛えられました」
ルクセンブルク時代
およそ1年半を経て帰国。上柿元勝氏が総料理長を務める、神戸ポートピアホテルの『アラン・シャペル』に空きがあると聞き、門を叩いた。
「そこで初めて、本当の厳しさを知りました。毎日、半端じゃなく怒られるんですよ(苦笑)。だけどだんだん慣れてくると、要領もわかってくるし、そうなると教えてもらえることも増えるし、仕事が早くなっていく。そうやって着実に技能を身につけていきました」
「一流の料理人である前に、一流の社会人であれ」という師匠の言葉。
リヨン郊外のミヨネー村に伝説的なレストランを開き、“厨房のダ・ヴィンチ”と称されたアラン・シャペル氏。世界で最も有名なシェフと言われるアラン・デュカス氏をはじめ、上柿元氏や三國氏といった超一流の料理人たちを育ててきた。神戸の『アラン・シャペル』は、フランスの本店以外で唯一、構えられたレストランだ。佐々木さんはここでの出会い以降、およそ20年にわたり上柿元氏に師事することとなる。
アラン・シャペル氏 来日イベント
「『一流の料理人である前に、一流の社会人であれ』とよく言われましたね。誰かが来たら大きな声で挨拶しろ、厨房は常に美しく保て…言われ続けた基礎的なことも身体に染みつき、今でも役に立っています。アラン・シャペルさんの教えでもある『生産者にも食材にも感謝を』という姿勢が身についたのも、上柿元ムッシュのおかげです。日本で地産地消が謳われ始めるずっと前から、地元に根づいた料理を提唱されていましたからね。さまざまな生産者を訪ねてきたことが、今につながっています」
やがて本店での研修も経験。来日時も含め、アラン・シャペル氏から直接学ぶ機会にも恵まれた。しかし働き始めて約2年が経った1990年、アラン・シャペル氏が52 歳の若さで急逝。あとを継いだフィリップ・ジュスシェフとの調整を一段落させた1992年、上柿元氏が長崎県佐世保市にあるハウステンボスホテルズの総料理長として赴くことになった。
「それでムッシュから『お前も行くか』と言われ、『行きます』と。まったく知らない土地でしたけどね。海も山もあるし、食材の鮮度も違う。これまでで最も過ごしやすい場所でした」
恩返しの意味も込め挑戦した世界最高峰の料理コンテストで日本一に。
ハウステンボスのフランス料理レストラン『エリタージュ』に勤めた期間は、実に16年半にものぼる。その間、部門シェフ、スーシェフ、シェフと、立場は変わっていったが、辞めてほかへ移ろうと考えたことはなかったという。
上柿元シェフと
「テレビの生放送や収録、全国各地でのイベントにもついて行かせてもらえ、九州の西の果てにいながらも、いろんなことを経験させてもらえましたからね。知らない厨房の人たちにお願いしながら調理を進める経験も、そうそう積めるものじゃない。東京へも頻繁に訪れ、常に最新の情報も得られていたので、ここ以上に勉強になる場所も思い当たりませんでしたから」
「ムッシュは料理人としてはもちろん、人間的な魅力にもあふれていました。筋を外すと死ぬほど怒られますが(苦笑)、とにかく人を大事にしてくださる。ムッシュに促され、『ボキューズ・ドール』に出場したのは、恩返しの意味もありました」
月日が流れ、ハウステンボスの経営母体が変わることになり、上柿元氏が離れることになるのは誰もがわかっていた。そんななか、『ボキューズ・ドール』の日本代表に選ばれた佐々木さんが、「これまで教わった通り、普段お客様に出している通りのことをしただけだ」と語ったことは、上柿元一門のレベルの高さを改めて知らしめることとなり、大きな反響を呼んだ。そしてアジア・パシフィック大会で優勝した佐々木さんは2008年、上柿元氏に促され、再び神戸の『アラン・シャペル』へ籍を移す。
『淡路鱧のポワレ 人参のクーリと水菜 ヘーゼルナッツのコポー』
ホテルでの役目を終え、町場に開業するレストランのシェフに。
やがて『アラン・シャペル』も本店の閉業を前に、終焉を迎えることになる。新店の提携先は、佐々木さん自身が候補を上げ、リヨンの歴史的名店『ラ メール ブラジィエ』に決まり、同店初の提携店としてスタートすることとなった。
『サフランの香る金目鯛のジュレ』
「マチュ・ヴィアネシェフの料理はカラフルなビジュアルでありつつ、クラシカルなことをきちっとやっていて、1921年の開業時から変わらない伝統のメニューも守っている。面白かったし、吸収するものが多かったです
『帆立貝とキャビアの庭園』
神戸ポートピアホテルの最上階は、階数の31を表す『トランテアン』という名前で生まれ変わった。軌道に乗り、そろそろ若手に委ねるべき時期だと考えていたとき、現存する日本最古のワイナリー「まるき葡萄酒」から、レストラン開業の話をもちかけられた。
『オマール海老を詰めた花付きズッキーニ』
「いろんなところへ食べに行くのが好きなオーナーで、『トランテアン』にも来てくれていたんですよ。それまで飲食店を展開する気はなかったようですが、今後さらにワインを広げていくため、ワインとの組み合わせを楽しめるレストランを開きたいとオファーがあったんです」
『アスパラガス畑とアスパラガスのアイスクリーム』
こうして2015年10月に『プレスキル』がオープン。大阪には久しく現れなかった格式ある高級フランス料理店、グランメゾンの誕生として話題を呼んだ。
『春の貝とアスパラガス 生ハムのミモザ』
「だけどグランメゾンは近寄りがたくて重くて古いイメージを持たれがち。クラシックな料理は、オリジナリティがなくて楽しくない印象があります。だったら見せ方はモダンにしようと変化させていきました。SNSも意識し、より色鮮やかにして…。一方でソースやフォン(だし)、火入れなど、ベースの部分は絶対に残そうと、方向性を定めていきました」
フランス料理の本質を守り、伝え、可能性を拡げていくために。
「大切なのは、技法と解釈を柔軟に変えながら本質を伝えていくこと。古典を忠実にコピーして若手に伝えたところで、それに惹かれるはずもありません。今のようにカラフルな葉っぱが昔あれば、エスコフィエ(“近代フランス料理の父”とも呼ばれる歴史的シェフ)も使っていたでしょうからね」
「チャレンジしたい若手は、全面的に応援したい」という思いから、コンクールへの参加も全力でバックアップ。『プレスキル』スーシェフの林啓一郎さんは、先日フランスで行われた「第69回プロスペール・モンタニエ国際料理コンクール」の本選に日本代表として出場し、見事優勝を果たした。伝統の本質を引き継ぐこと、時代性を柔軟に取り入れること、そして後進を育てること。佐々木さんの見据える未来は明確だ。
林啓一郎スーシェフの「第69回プロスペール・モンタニエ国際料理コンクール」優勝トロフィー(左)
「先日、同年代のシェフから、『佐々木さんの料理を食べてほっとした』と言われたんですよね。守り続けるべき芯の部分が、本国フランスでも揺らいできている。それをどう伝えていくかが大きな課題になってきています」
「最近、アラン・シャペルさんの弟子や孫弟子たちで、『クラブ・ド・ミヨネー』という会を結成したんですよ。名誉会長はアラン・デュカスさん、会長は上柿元ムッシュ、副会長は三國シェフで、その下の理事に入らせてもらったんですが、さらに広がりをもたせた“たすきをつなごう”という趣旨の『クラブ・ド・タスキ・ドール』と改名し、渡辺(雄一郎)シェフなども加わってくださいます」
『クラブ・ド・タスキ・ドール』のメンバーと
「変化することも大事だけれど、次代に真髄をつなぐのは我々の役目でもある。これから志す若い人たちにもそれを伝え、さらに可能性を広げていってもらいたいですね」
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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