INTERVIEW
No.101

恩師への憧れから調理師学校の教員となり、イタリア料理の道へ。貴重な経験や人との縁、すべてが結実し、地元にピッツェリアを開けた。

ピッツェリア エン オーナーシェフ

菊富友一さん

profile.
兵庫県三田市出身。兵庫県立三田西陵高等学校卒業後、大阪の辻󠄀調理師専門学校に進学。1999年に卒業後、教員として辻󠄀調グループに入職。2008年からは同グループのフランス校に約2年間勤務。南仏にあるミシュラン二つ星レストランでの研修も経験。帰国後はイタリア料理の専任教員として活躍。2013年に退職し、地元三田市の創作串揚げ店の料理長を任され、人気店へと成長させる。2015年6月、同じ一角に『ピッツェリア エン』をオープン。2019年3月には姉妹店となる『パティスリー エン』を同市に開業させた。
access_time 2019.09.30

日々のいろんな出会いが面白く、お客様に育ててもらえている感覚。

兵庫県三田市にある『ピッツェリア エン』は、本式のナポリピッツァをはじめ、おいしいイタリア料理が楽しめると人気のお店だ。三田駅の近く、創作串揚げ店や燻製料理の居酒屋など、個性的な飲食店が軒を連ねる路地に2015年6月、オープンした。
「縁結び通り」と呼ばれている一角
各店が協力し、屋外の飲食スペースではどの店舗の料理も食べられるようになっていることもあり、この一角は「縁結び通り」と呼ばれている。そこに由来する店名には、何よりも“縁”を大切にするシェフ、菊富友一さんの想いも込められている。
「わざわざ遠方から来てくださるお客様も増えてきました。日々いろんなお客様が来てくださって、いろんな出会いがあり、飽きることはありません。こうしてご縁がつながっていくのは、ありがたいこと。お客様が育ててくださっている感覚です」

将来の道として決めたからには、しっかり勉強してから進みたい。

小学生の頃からずっと野球に打ち込んで来た菊富さん。高校に入り、練習時間の減る冬場に始めたアルバイトで、初めて飲食業に触れた。
「自分の盛り付けたものでお客さんからお金をいただくという感覚が新鮮で…面白い仕事だなと」
いざ将来を考えたとき、選んだのが飲食の道だった。それなら知人の飲食店にと親には勧められたが、やるからにはしっかり勉強したいと、大阪の辻󠄀調理師専門学校へ進学。
「いろんな学校の資料を見比べて、とことん学べそうな印象を受けたんですよね。進学した地元の先輩にも勧められ、ここしかないなと。もともと教員志望で国公立大学をめざしていたから、親からはずっと反対されていて。1カ月以上かけて説得し、ようやく許してもらえました。お金の工面も大変だったと思います。その分、本気で勉強しなければという気持ちでした」

料理で人を惹きつける力、背中で引っ張るリーダーに憧れて教員に。

常に新しいことを学び続け、日々それを応用していく。進学後は毎日必死だったが、その濃密さが楽しかった。なかでも魅了されたのが、本多功禰先生による西洋料理の授業だった。
「今まで見たこともない料理をつくる姿に、みんなが引き込まれていくんですよ。テレビ番組でも活躍されている先生だったんですが、料理をすることで人を惹きつける力ってすごいなと」
もう一人、敬愛していたのが大西章仁先生だ。年が3つしか変わらないのに、学生目線でも「仕事ができる」と思わせる働きぶり。何よりその人間力に惹かれた。
「怒鳴ったり怒ったりされない。それでいて、しっかり進言して若いスタッフは守るような…。僕は小中高と野球部でキャプテンをしてきたので、そういう背中で引っ張るリーダー像に憧れがあったんです」
在学途中からはイタリア料理店でのアルバイトも始め、1年間の課程を終えれば現場に出ようと考えていた。しかし、あるとき目に留まったのが辻󠄀調グループ教職員募集の知らせだった。
「小中高と学校が大好きで、教職をめざしていたほどでしたからね。入学前は考えてもみなかった進路でしたが、辻󠄀調の先生たちと共に働きたいなと。僕らの世界は技術が結果です。どれだけ偉くても、料理ができなかったら評価されません。そのあたりも、かっこいいなと思ったんですよね」
辻󠄀調グループの教員時代

学生から兄貴的な存在として頼ってきてもらえるのがやりがいだった。

辻󠄀調グループでは、学生がなるべく料理に集中できるように、材料の調達や各班への振り分けなどは助手の教員がこなす。そのことに1年目は、ひたすら追われていたという。
「だけど学生にとっては“先生”ですからね。兄貴的な存在として頼ってきてもらえるのがやりがいでした。いつか担任をもって、授業をやりたい。そう思いながら頑張っていました」
教員の先輩たちにはかわいがってもらい、毎日のように食事に連れて行ってもらった。そのときに出る専門的な話題にもついていきたいと勉強に励む。2年目からは講習の助手にも入るようになった。昨日より今日、今日より明日と努力を続けるうちに、みるみる技能が高まっていく。
「学校は教壇に立っている先生、全員が料理長みたいなものですからね。同じ料理の授業でもそれぞれ違ってきますし、個性も強い。『この人のときはこう準備して、こう動かなければ』という気遣いの部分も、ものすごく鍛えられました。世界中からどこのシェフが来ても、満足して帰ってもらえるだけの力がつく現場でした」
テレビ番組や講習会、教科書作成の手伝いなど、若い頃から多くの仕事に携わらせてもらい、自分を磨いていった。
「やがて27歳で担任をもつようになれたんですが、フランスへ行ったことのない劣等感があったんですよね。23歳で結婚し、翌年には子どもも生まれたので、辻󠄀調グループのフランス校へ赴任することもなく…。だけど子どもも3歳になったことだし、フランス校行きを志願したんです」
フランス校勤務時代 コアール先生と

驚くほどのスピードで成長できる、フランス校の素晴らしさを体感。

期待と覚悟をもって臨んだフランス校。しかし「まさかここまでとは」と思うほどに厳しかったという。
「フランス人シェフのコアール先生に怒鳴られまくりましたからね(苦笑)。それだけ本気なんです。学生も本気、僕らも本気。フランス校の素晴らしさを存分に体感しました」
駐在する日本人教員は4~5人程度。フランス人シェフと学生との間のクッションとなり、学生の変化や浮き沈みに気づく必要がある。
「学生たちのことは手に取るようにわかりました。半年間、毎日一緒に生活しますからね。本当に究極の学校だと思います。学生にとっても厳しい環境ではあるでしょうが、たった半年で、あり得ないぐらいのスピードで成長するんですよ」
修了する頃には、厳しかったフランス人シェフに褒められるほどの成長ぶりを見せる学生たち。研修で行くフランスのレストランでも通用するようになっている。菊富さんも、1年ほど経った頃、南仏にあるミシュラン二つ星のレストランへ修業に出たが、「辻󠄀の人間なら大丈夫だな」と、どんどん仕事を任されたと振り返る。

イタリア人の陽気さやイタリア料理の素材勝負なところが好きだった。

国ごとに違うヨーロッパの料理は、それぞれ関わり合いながら構築されている。なかでも古くから体系づけられたフランス料理を学ぶことは、他国の料理に精通することにもつながっていく。そのため西洋料理の教員は、フランス校を経験してから、フランス料理とイタリア料理の道に分かれることが多いという。菊富さんが惹かれたのはイタリア料理で、フランス滞在中も2週に1度はイタリアを巡っていた。
「料理はもちろん、イタリア人の陽気な雰囲気も好きだったんです。片言で話しかけるだけでも、すごくウエルカムな感じで性に合っていました。フランス料理の複雑さも好きだったんですけど、それ以上にイタリア料理の素材勝負なところが好きだったんですよね」
イタリア語の勉強も重ね、イタリア・スローフード協会公認「イタル・クック」を履修。地方料理についても学んだ。
「いろんなシェフが講習に来るんですが、人によって全然違うんです。イタリア料理の原型は、各地方それぞれの家庭のお母さんの料理。その料理がものすごくおいしいっていう、一筋縄じゃいかない面白さも感じました」
野上昌徳先生(左側)と

帰国後、お世話になった先生から学んだお客様ファーストの精神

「帰国後はイタリア料理班で色々な仕事を任せて頂きました。その中でも韓国の企業とのコラボでソウルから食を発信する為、韓国で長期にわたって授業を行う仕事でお世話になったのが、野上昌徳先生。朝から晩までずっと一緒でイタリアの生活、食材、料理、レストランのこと、授業の進め方などをずっと話ししていました。たまにはマッコリを飲みながら子供のように2人で夜遅くまで騒いでましたが・・・」
「ただ、野上先生からは仕事に向き合う姿勢をまざまざと見せつけられました。“無理”とか“嫌”という言葉は口にされない方でした。どんなことにでも出来る限り挑戦する。単なるイエスマンではないんですよね。芯が通った、難題でもなんとかしてクリアするというか、お客様のご要望に徹底的にお応えする為に努力を惜しまないというか。そんな姿を毎日横で見させて頂いたからこそ、大きな影響を受け、お客様ファーストの今の自分があります」

「料理を教えてほしい」と頼まれて転身し、イタリア料理店の開業へ

辻󠄀調グループの教員としてイタリア料理の指導に尽力。規定が細かく、まだ学内にノウハウのなかったナポリピッツァの教育課程を導入するなど、学生たちの可能性を広げた。次なる挑戦について考えていた頃。中学時代の遊び仲間であり、地元三田市でいくつもの飲食店を展開していた後輩から声がかかる。
「串揚げ店を開いたものの素人しかいないから、料理を教えてほしいと。実際に見てみると散々だったんですが、料理の基礎を教えたらいい店になるだろうと可能性を感じたので、手伝うことにしたんです」
こうして学校を退職し、2年間の契約で方向性を模索。オマール海老やフォアグラ、トリュフなどの新しい食材を使った創作串揚げを考案し、人気を集めるようになる。
ピッツァ マルゲリータ
「カウンターの店だったので接客も初めて経験したんですが、その面でもとても勉強になりました。今までとは違う世界に葛藤もあったんですが、目の前でお客様が喜んでいる姿を見て、やっぱりいい仕事だなって」
アンティパスト・ミスト(前菜の盛り合わせ)
店が軌道に乗り、間もなく2年を迎えようとした頃。今度は一緒にイタリア料理店をやらないかと提案された。
「それで串揚げ店の向かいにあるこの場所に『ピッツェリア エン』を開くことになったんです。教員時代に学んだナポリピッツァを提供できるよう、本場ナポリから船で取り寄せたピッツァ窯も導入して。メニューやサービス内容を試行錯誤し、1年ほどで経営も安定しました。だけどいずれは自分でやりたい思いがあったので、社長に買い取らせてもらえるようお願いし、オープンから2年と少しで独立させてもらいました」
ヴォンゴレ・ロッソ

今も教育が大きなやりがい。ネット社会になろうが、結局は“人”。

独立後は、すべて自分の裁量で決め、すべて自分で責任を取ることになる。力を入れたかったのは後進の育成だった。
「失敗してもいいというスタンスで教えています。最後に僕が確認して責任をとればいいだけのことですからね。今のところみんな食らいついてきてくれています。だからうちのバイトは、めちゃくちゃ仕事できるんですよ」
二番手を務めるアスカさん
現在、二番手を務めるアスカさんも、もとはアルバイトだった。「料理で頑張っていきたい」と志願してくれたため社員へ。今では彼女がすべてできるようになったので、定休日なしで営業できているという。
「今も教育が大きなやりがいです。たとえアルバイトでも、社会人になるためのステップアップとして、仕事というものに向き合って成長してもらえたらなと思っています。『ここで働けて良かった』と感じてもらえたらうれしいですね」
生まれ育った三田のまちに“本物”を伝えることで恩返しをしたい。そんな想いの一環として、兵庫県の中学生が職場体験をする「トライやる・ウィーク」にも協力している。
「お客さんにPTAの方がいてお話をいただいたんですよ。挨拶を大切にすることから教えて、最終日にはピザを焼いてもらいました。最初は怖かったでしょうが(笑)、喜んでくれていましたよ」
体験することで楽しさを見いだし、可能性が広がることもある。かつての自分がそうだったように、道を拓くためには人との関わりが欠かせないと菊富さんは考える。
「これだけネット社会になりましたが、結局は“人”です。僕は人に恵まれて、ここまでやってこられました。その時々で一生懸命頑張って、正直に生きていけば、人との縁に助けられていくと信じています」

菊富友一さんの卒業校

辻󠄀調理師専門学校 launch

辻󠄀調理師専門学校

西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ

食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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