No.018
国内外のお客様が抱かれる「日本料理の名店 𠮷兆」というイメージも、修業を重ねるための大きなモチベーションに。
HANA𠮷兆 料理人
櫻井和広さん
profile.
大阪市出身。大阪府立咲洲高等学校を卒業後、2011年4月、辻󠄀調理師専門学校へ進学。辻󠄀調理技術研究所 日本料理研究課程(当時)を経て、2013年4月、『京都𠮷兆』に就職。祇園の『HANA𠮷兆』に勤務し、現在に至る。
access_time 2017.07.28
雰囲気はもちろん、盛りつけにも味つけにも感動し、修業を決意した。
1930年、大阪・新町で創業し、日本料理を世界に知らしめた料亭『𠮷兆』。グループ4社のなかでも、京都を中心に展開するのが『京都𠮷兆』だ。その1店舗、『HANA𠮷兆』は、観光名所ともなっている花街、祇園の大和大和路通沿い。
5階には景色盆栽家による苔の壁をあしらうなど、フロアごとに異なる雰囲気を創出。日本の伝統美と洗練されたモダンな美しさを、見事に融合させている。煮物づくりを主とする「煮方」を持ち場とする櫻井和広さんは言う。
「辻󠄀調に入って以降、友人たちとさまざまなお店を食べ歩いたんですが、僕自身、最も惹かれたのがここでした。雰囲気はもちろん、盛りつけにも味つけにも感動して…。もともと日本料理と言えば『𠮷兆』というイメージがあったんですが、実際に足を運び、自分自身が『美しい』『おいしい』と感じられたことが、志望の決め手になりました」
基礎の基礎から徹底的に叩き込まれたことが、すべての土台になっている。
「中学に入り、家族にご飯をつくってあげたんですよね。そのときに『おいしい』と言ってもらえるのが、ものすごくうれしくて。そこから料理が好きになり、気がつけば料理の道しか考えていませんでした」
専門学校に進むことは、早い段階から決めていた。大阪市内で生まれ育った櫻井さんにとっては、「調理師の専門学校といえば辻󠄀調」という印象があったという。両親からの後押しもあり、迷うことなく進学した。
「やはり慣れ親しんでいるのが和食だったので、日本料理と入学前から決めていたんですが、実際に学び始めると実に奥が深くて難しい。出汁の加減も経験がなければわからないし、包丁の技術もやすやすと身につくものじゃない。魚をさばくのも、桂むきも、最初は全然できなくて、家に帰ってからも練習を繰り返しました」
基礎の基礎から徹底的に叩き込まれたが、いやにはならなかった。やればやるだけ技術の向上を実感でき、毎日が楽しかった。
「先生方が、放課後の自主練習にも付き合ってくださるなど、すごく熱心でしたからね。『基本をしっかりやらないとアカン』とよく言われましたが、そのことを働き始めてから痛感します。まだまだ未熟ながらも、土台は築けていて良かったなと。学生のうちから、良い素材を厳選して使わせてもらったことも、ありがたかったです」
細かなことに気づけるかどうかで、仕上がる料理もまったく違ってくる。
「辻󠄀調にも𠮷兆出身の先生が何人もいらっしゃって、その姿からも『𠮷兆』への憧れが強まりました。とにかく修業が大変だということは、さんざん聞かされていましたからね。だけど『𠮷兆』で修業を積めば、どこででも通用するって」
1年目は雑用、いわゆる「追い回し」を経験。今は勤務体系も変わったが、当時は早朝から深夜までが当たり前だった。
「毎朝、先輩方が使う包丁や調理器具など全部セットし、夜遅くまで片づけや掃除に追われ、とにかく大変でした。だけどここで逃げ出したら、今後も絶対、続かないだろうと。翌年には持ち場につかせてもらえるとわかっていたので、一歩先を想像してガムシャラに頑張りました」
2年目からは「煮方」の脇につき、料理長や副料理長の補佐をする。それと同時に、新しく入ってきた後輩の指導もあり、目の回る忙しさだった。
「いざフタを開けてみると、2年目が一番つらかったです(苦笑)。あれこれ頼まれ、どうしていいかわからないなか、下の子も教えないといけない。下が失敗したら、自分が怒られる。相当きつかったです。だけど振り返ると、尊敬する先輩から言われた『下の仕事ができないと、上の仕事なんてできない』という言葉が身に沁みます。掃除にしろ洗い物にしろ、少しの汚れに気づける意識があるかないかで、仕上がる料理もまったく違ってくる。周囲すべてに気を配ることの積み重ねが、いまにつながっています」
料理名「冬瓜けんちん」
器や生け花、しつらえも素晴らしく、舌はもちろん目も肥える環境。
年数を重ねるにつれ、味つけも見てもらえるようになった。料理長からOKをもらえれば、お客様にもお出しできる。その積み重ねで、つくれるものが増えていく。
「やはり、やりがいがありますね。漬け物に関しては、すべて僕一人で担当しているんですよ。何を漬けるかも任せてもらえています。サービス担当がお客様のご感想を調理場に伝えてくれるんですが、自分が関わったものに対し、『すごくおいしかった』『盛りつけがきれいだった』『感動した』といったお声を伺うと、やっていて本当に良かったなと感じます」
料理名「八寸」
4年目の秋からは、焼き物をつくる「焼き場」の仕事も、少しずつ学ばせてもらうようになった。ほかにも「造り場」や「八寸場」などもあるが、担当するスパンは長い。なかには同じ持ち場を7~8年担う人もいるという。
「『𠮷兆』でしか経験できないことが山ほどあり、日々の積み重ねからも新たな発見もあります。器や掛け軸、生けてある花、どれをとっても素晴らしく、それらが料理と一体になっている。舌はもちろん、目も肥える環境です。他店に比べて年数はかかりますが、ここで得たものを自分のものにし、すべて吸収できたら何より強いでしょうからね」
海外からの観光客が抱く、日本文化への印象すら左右しかねない責任。
入社してから器への興味が高まり、産地を訪れるなど造詣を深めている。器にインスパイアされ、料理をイメージすることもあるという。5年目に入り、「煮方」の仕入れも担当するようになった。何を使うか料理長と相談しながら原価を計算し、材料を管理している。
「レベルの高い料理をお出しすることが大前提。下手なことはできないですし、自分に甘くもできません。『𠮷兆』で働いている、ということは、常に忘れないよう意識しています」
国内はもちろん、海外からの観光客も多く訪れる『HANA𠮷兆』。2013年、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されて以降、世界的な注目もさらに高まっている。
「『日本料理といえば𠮷兆』というイメージをもって、海外から来店される方も大勢いらっしゃいます。しかも、ここは京都。訪れたお客様が抱く日本文化への印象すら左右しかねないので責任重大です。一方、すべてを知り尽くした常連様の目もあります。背負っているものが大きいというのは、仕事へのモチベーションにもなっています」
お客様の笑顔や喜ぶ姿を想像すれば、厳しい修業も乗り越えられる。
「年月をかけて腕を磨くことは、覚悟をして来ましたからね。中途半端に投げ出したら、恩師に顔向けもできません。学生時代の同期ともたまに呑みに行くんですが、頑張っている話を聞くと刺激になる。辻󠄀調時代の先生や同級生の存在も、大きな支えになっています」
料理も多くの技能職と同じで、一つのことを突き詰めていけば深みが違ってくる。しかし道半ばで耐えきれなくなり、諦めてしまう人も少なくない。体力的にも精神的にも厳しい世界。それを乗り越えるためには、想像力も大切だと櫻井さんは語る。
「お客様の笑顔や喜んでくださる姿を想像したら、料理人をめざして良かったと思えるはず。つらいときは目の前のことでいっぱいいっぱいになりがちですが、一歩引いて想像力を豊かにすれば、また頑張れるんじゃないでしょうか」
京都に来るとなぜか落ち着き、空気も違う。学生時代からそう感じていたこともあり、将来はこの地で店を構えたいという。たとえば、小さなカウンター割烹で、お客様と会話をしながら、料理を楽しんでもらう。そんな未来も想像しながら櫻井さんはいま、日本料理の道を突き進んでいる。
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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