No.019
日本料理の腕を極めるべく、和食のユネスコ無形文化遺産登録にも尽力した京都の老舗料亭へ。仲間がいるから、厳しい修業も頑張れる。
菊乃井 露庵 料理人
内藤 大喜さん
profile.
岡山市出身。家族の転勤で高校から奈良へ。奈良県立二階堂高等学校を卒業後、2011年4月、辻󠄀調理師専門学校へ進学。辻󠄀調理技術研究所 日本料理研究課程(当時)を経て、2013年4月、『菊乃井』に就職。京都『菊乃井 露庵』に勤務し、現在に至る。
access_time 2017.08.04
学生時代、良きライバルに出会えたおかげで、飛躍的に成長できた。
「幼い頃、夕食づくりを手伝って、おいしいと言ってもらえるのがうれしくて。それだけで料理が好きになりました。近所に住んでいたおじいちゃん、おばあちゃんの家でも喜んでもらえていたから、世代を問わず好まれる日本料理を職にしたいと、思うようになったんです」
学ぶにあたり、現場で経験を積んだ先生もいると聞いた辻󠄀調へ迷わず進学。2年目には、辻󠄀調理技術研究所の日本料理研究課程へと進み、帰宅後は毎晩、家族に向けた翌日の食事をつくっていたという。
「奈良から通学していたんですが、アルバイト後に近所のスーパーで買い物をし、深夜12時ぐらいに帰ってきて、近所のスーパーで買ってきたアジを三枚卸しにして料理したり、タイの頭をあら炊きにしたり。1年目から同じクラスだった櫻井(和広さん)をライバル視していたんで、ちょっとでもうまくなろうと必死でした(笑)」
丸山裕樹料理長(右側)
多くの友人に恵まれた一方で、「櫻井は特別」と断言するほど、ふたりは良きライバルとなり親友となった。努力を重ねる自分に対し、周囲が「すごい」と感心するなか、「俺もやろう」と食らいついてきたのが彼だった。
「お互い『おっしゃ、負けへんで』みたいな。先生もそれがわかっているから、実技テストのときに僕と櫻井をわざと横にして、それぞれに相手のほうがうまいって真逆のことを言うんですよ。『君はそれでいいの?』なんて煽ってきたりして(笑)。彼はだし巻きが得意だったので、休みの間に抜いてやろうと、教室が使える日に卵を大量に買って行って、ずっと練習していましたね。競争しているのが楽しくて、すごくいい関係が築けました。今でもいっしょに呑みに行って、お互いの近況を報告し合っています」
「ここで働けたら自分も大きく変われるだろう」と志望した老舗料亭。
先に志望先を決めたのは櫻井さんだった。「和食で就職するなら京都」と決めていた彼は、内藤さんと一緒に祇園の『HANA吉兆』さんへ食べに行ったとき、そのすべてに感動して即断したという。一方で内藤さんも有名店を視野に、京都だけでなく東京にも足を運んでいた。
「一泊二日で食べ歩いたりと、けっこう行きましたね。そのなかで感動したのが『菊乃井』でした。本店(京都)と赤坂(東京)に行ったんですが、どちらも一品一品がしっかりしていて、振る舞い方も料理の出し方も雰囲気も素晴らしくて。調べるうちに、大将(村田吉弘さん)が和食をユネスコの無形文化遺産に登録するために動いていることを知って。そんな人の下で働けたら、自分も大きく変われるだろうと、心が決まりました」
八寸 (鱧寿司 サフラン生姜 甘鯛水玉胡瓜 朝瓜雷干し 利休麩 胡麻酢和え 紅蓼 川海老 蛸の子 とこぶし)
大正元年(1912年)に京都・祇園で創業した老舗料亭『菊乃井』店主の村田吉弘さんは、日本料理界を代表する存在。「日本料理を正しく世界に発信する」こともライフワークにしていて、2013年の和食のユネスコ無形文化遺産登録にも大きく貢献した。
「赤坂に行って、改めてカウンター割烹に魅力を感じたんですよ。料理人をめざした一番の理由が人に喜んでもらいたいことだったので、自分で仕上げた料理を自分で出せたらいいなと。だから『菊乃井』のなかでも、京都で同じスタイルをとっている『菊乃井 露庵』での勤務を志望しました」
向付 (明石鯛 太刀魚 ポン酢ゼリー 山葵)
仲間と親の存在があったからこそ、くじけず頑張り続けられた。
「厳しいのはわかっていました。だけど思っていた以上でしたね(苦笑)。最初は大変でしたが、どこも同じです。辻󠄀調の同期と連絡を取り合って、励まし合って。親の存在も大きかったです。『大丈夫』『頑張りや』って言葉に、どれだけ助けられたか…。仲間と親の存在があったからこそ、『辞める』ではなく『頑張る』という選択をし続けられました」
菊乃井 露庵の大将(店主)村田喜治さん(中央)
1年目は「追い回し」。魚の水洗いにしろ、ものの持ち運びにしろ、とにかくスピードが求められた。そこから通称「前」と呼ばれる接客を経て、調理場内のポジションを次々に経験。『菊乃井』では、半年に一度、大きな異動があり、およそ5年間ですべてのポジションを経験できるよう、ローテーションが組まれている。
現在、内藤さんは、「前」のリーダー。料理長の丸山裕樹さんによれば、「料理を回す一番中心。お客様と調理場の兼ね合いをはかるのは彼の役割です」とのこと。「調理はいくらかできるようになったので、次は店全体を俯瞰できるようになればと。よく頑張ってくれていて、これからが楽しみですよ」と評価する一方、「あわせて下の子の面倒も見ないといけないから、今が一番大変な時期だと思います」と察する料理長に対し、内藤さんはこう答える。
「『どうしたらこの子をうまく使えるか』という部分が難しいです。怒って成長する子も萎縮して落ちてしまう子もいますからね。それぞれに合わせた指導ができるよう努めています。それと、秋からは八寸場を担当させてもらえるので、今はその準備も並行してやっているところです」
4年後輩の山根さん(左側)辻󠄀調理師専門学校 2017年卒
伝統を守りながらも革新を続ける『菊乃井』の柔軟性。
日々、新しい提案を行い、革新を続けるのが『菊乃井』のスタンス。同じことをやり続ける伝承ではなく、変わるものと変わらないものを見極め、革新し続けることで、多くの人に喜ばれる「伝統」を築いていける。そんな考えが根底にある。本店の大将の村田吉弘さんからは、月替わりの料理を決めるミーティングで月に一度、話を聞く機会があるという。
「初めてのミーティングで気が楽になったのは、大将からの『頑張りすぎるな』という言葉。自分たちは長距離ランナーなんだから、ずっと全力で走っていては身がもたない。ランニングをする程度で、長く居られるほうがいいと。もちろんそれは、手を抜いていいという話じゃありませんが、そう言ってもらえたおかげで、ずいぶんと救われました」
修業が大変なのは当たり前。しかし料理長も柔軟で、どうすればより良い職場環境になるかを常に考えてくれているという。
「料理だけじゃなく、人のこともすごく見てくれています。僕が入ってからも、体制がどんどん変わってきていて、今の1年生はやりやすいだろうなと思いますよ(笑)。料理人としてだけでなく、人としてもすごい。若手のなかに飛び込んできて、『どうしたら、この子たちはもっと興味を示すだろう』と、常日頃から考えてくれています。そんな料理長と同様に、本店の大将もうちの大将(村田喜治さん)もこれまでの慣習に捉われず、柔軟に対応いただけるのがありがたいですね。自分もこうなりたいと憧れます」
「人に喜んでもらいたい」という原点が、夢への意欲につながっている。
常に相手の気持ちを読み、行動を読んで動く。学生時代の実習で繰り返し言われていたことは、どのポジションでも重要だと痛感している。
「仕込みにしろ何にしろ、『こうしたら、こうなるだろう』と自分の頭のなかでイメージし、先を読んで動くことが大切です。次に何をするべきかを考えながら動くと、周りとの連携もスムーズに進みますからね」
和食が無形文化遺産に登録されて以降、海外からのお客様も増え続けている。彼らにとっては、日本料理が初めてかもしれないし、この経験が最初で最後になるかもしれない。そんな考えのもと、心して調理し、心を込めて接客にあたっている。
「だから英語も勉強中です(笑)。料理をお出しして喜んでいただけ、おいしそうに完食していただけると、心からうれしくなる。なかでも自分が手がけたものに感動していただけたら、喜びもひとしおですね」
基本のメニューは月替わりだが、月に何度も来られるお客様のメニューは自分たちで考案。それもまた、大きなやりがいとなっている。
「食べてもらってのリアクションが新鮮だと、すごくやる気につながりますね。自分がきれいに盛りつけられたと思ったものに喜んでいただけたり、自分がお伝えした内容に感動してもらえたりしたら、さらに意欲が高まります。ゆくゆくは自分も、カウンター割烹を開きたい。『人に喜んでもらいたい』という原点は変わらないので、実現できるよう修業を重ねます」
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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