No.172
蕎麦打ちや接客の面白さに目覚め、理想の店へ。好きなものをつくり、お客様に喜ばれ、交流も楽しめる…料理人はこの上なく幸せな仕事。
手打ち蕎麦 甚九郎 店主
森本 貴之さん
profile.
大阪府出身。大阪・関西大学北陽高等学校から辻󠄀󠄀調理師専門学校を経て辻󠄀󠄀製菓専門学校に進学。2003年に卒業後、肥後橋の手打ち蕎麦店『若木』、天王寺の和食居酒屋『魁(かい)』、北新地の割烹『樂只庵(らくしあん)』など、大阪市内の飲食店で修業を重ねる。2007年、父が営む東三国の大衆食堂『甚九郎』で働き始め、やがて二代目店主となり、2012年7月に「蕎麦フレンチ」の店としてリニューアルオープン。コロナ禍を経て、現在は手打ち蕎麦をメインに経営。
access_time 2024.03.01
まだ子どもだったから、その気になり、将来はあとを継ぐと思い込んでいた。
大阪市の東三国にある『甚九郎』は、森本貴之さんが店主を務める、手打ち蕎麦店だ。創業したのは森本さんが小学1年生だった平成元年、1989年7月。蕎麦をメインに修業を重ねた父親が独立開業させた、手打ち蕎麦を中心に提供する街の食堂が始まりだった。
「厨房で遊ぶのが好きだったんですよ。嬉しがって店をうろちょろしていたら、周りの大人たちが『二代目!』って呼んでくれていたんですよね。まだ子どもだったから、その気になっちゃって。将来はあとを継ぐんだって思い込んでいました」
辻󠄀󠄀調理師専門学校の卒業式にて
高校卒業後は調理師学校に進学。いくつか見学に回ったが、最終的に父の勧めで選んだのが大阪市内にある辻󠄀󠄀調理師専門学校だった。
「基礎的なことを学んでから、まずは外で働くように言われました。自分のところだけの狭い世界じゃなく、外の厳しさも知っておいたほうがいいと。学校では和洋中をすべて学べて楽しかったですし、みんなで月1万円ずつお金を貯めて、食べ歩きに行っていたのもいい経験でした」
ただ、1年間の学校生活で、製菓も学んでみたいと思うようになった。それを話すと父親は、「やりたいならやってみたらいい」と後押してくれた。
「そもそも父は店を継いでもらおうとは思っておらず、パン屋でもケーキ屋でも好きなことをやればいいって言われていたんですよね。高校時代、お菓子づくりにはまったこともあったんですが、調理師学校で少し勉強したときも楽しく、もしかしたらお菓子がやりたいのかも…と思ったんですよね。そこで辻󠄀󠄀製菓専門学校に再進学したんですが、実際に学んでみると、やはり調理の方がやりたかったんだと実感して。経験したことで、確信を得られました」
気温や湿度、産地や挽き方などに合わせて変化させるのも、蕎麦打ちの面白さ。
2003年の卒業後は、大阪市内の手打ち蕎麦店に就職。当時、まだ大阪に多くはなかった手打ち蕎麦店を食べ歩き、最も惹かれた店舗を選んだ。しかし、たった1週間で辞めてしまったという。
「人間関係も良好で、労働条件もいい。厳しいということもなく、今思えば夢のような環境だったのに、実際に働きだすと理想と仕事が合わないように感じてしまって…。自分が子ども過ぎて、まだ社会人になれていなかったんです。ただ、2回も学校に行かせてもらった手前、また進学ってわけにもいきませんし、仕事を探そうと求人誌を見ても目に留まるのは飲食店ばかり。やるならやはり蕎麦だと、蕎麦の専門店に入らせてもらいました」
まだ開業間もなかった就職先の蕎麦店には、老舗の蕎麦職人が指導に来てくれ、2年間、蕎麦について基礎からみっちり学べた。その際に、蕎麦打ちの楽しさに目覚めたという。
「手の感触で見ながら水分量を調整し、ベストの状態をめざすのが楽しいんですよ。気温や湿度など、日々の変化に対応していくのがとても面白い。産地によっても挽き方によっても全然変わってきます。店を引き継いでからは日本全国、さまざまな産地のものを使うようにしているんですが、それぞれに個性があって一筋縄ではいきません。挽き方にも打ち方にも工夫が必要なので、やりがいがあります」
そこから料理も学びたいと、天王寺の和食居酒屋へ。
「日本料理の経験を積まれた熟練の職人さんたちが集まっているお店だったので、とても勉強になりました。ただ、大将から、若いうちに居酒屋仕事じゃなく、しっかりと技術を覚えたほうがいいと言われて。1年間で包丁の使い方や仕込みの方法など基礎的なところから、焼き物、煮物、揚げ物まで一通り教えてもらい、大将のお兄さんがやられている北新地の割烹に送り出してくれました」
「この割烹は、おやっさんがご高齢だったので、残り1年と少しで店を閉められたんですが、その間、マンツーマンで料理をつくる技術だけでなく、料理の背景や、季節ごとの料理など、料理がもつ意味合いまで丁寧に教えてもらえ、濃密な時間が過ごせました」
敷かれたレールと違うことに挑戦したことで、あらためて父親の偉大さを痛感。
1年と少しの期間ではあったが、1対1で指導をしてもらえ、濃密な時間が過ごせた。そして二十代半ばで『甚九郎』へ。
「30歳になれば引き渡すという話だったんですが、自分としては少しでも変えたくて、戻ってからすぐは毎日のように喧嘩でした。食事がメインの店だったので、日本酒を飲みながら料理を楽しめるようにシフトしたかったんですよ。料理の背景も含めて、意味を持たせた料理を提供したいと…。父親がつくり上げた店は、当時かなりの人気店で、多いときは1日200人もいらっしゃっていて。親父としては、苦労して確立させた繁盛店に対する思い入れもある。でも僕は自分のイメージですぐにでも変えたいという想いの中、葛藤はありましたが5年ほどは父親と一緒にもとの形態のまま続けました」
その後、フランス料理に進んだ調理師学校時代の同級生を誘い、2012年7月にリニューアルオープン。ビストロ風のアテがあり、シメに蕎麦を出すような、「蕎麦フレンチ」の店として打ち出した。天王寺や北新地でカウンター越しに接客する楽しさを感じていたため、外装だけでなく内装も一新させた。
「敷かれたレール的な感じもあったから、とにかく違うことをしたかったんですよね。半分残れば100人は来るだろうと思っていたんですが、そんなに甘くはありませんでした(苦笑)。25年間この場所にあった店を、まったく別の店にしてしまったから、これまでの常連さんは全然来なくなったんですよ。いざ親父と離れ自分で始めると、経営者としての親父のすごさがやっとわかりました。親子だから素直に教えてもらわないことが多かったんですが、ただ、親父の引いた出汁で育ち、それが一番おいしいと思っていたので、配合なども一切変えずに受け継いでいます」
出だしこそ苦労をしたものの、「蕎麦フレンチ」というキャッチーさが響き、メディアに取り上げられるようになると一気に忙しくなった。そこで日本料理の料理人も加え、最終的にはホール担当も入れた4人体制になったが、徐々に歯車が狂っていった。
「それぞれが個性が強く、妥協をしないから無理が出てきたんですよね。関係性が外から見てもわかるぐらい悪くなってしまい、お客様も徐々に減っていきました。やがて一人が独立するタイミングで解散。その直後、コロナ禍になってしまったんです」
食生活に困っている学生を対象に親子丼の無償提供
コロナ禍で広がった新しいつながり。再スタートで接客の楽しさを噛みしめた。
コロナ禍に入って間もない2020年3月、森本さんの行動がニュースで取り上げられる。コロナ禍の影響でアルバイト収入を失うなど、食生活に困っている学生を対象に、親子丼の無償提供を始めたのだ。
「誰かが困っていて、できることがあるなら何かしないと気持ち悪いというか。それまでにも地震などの災害があると、土曜の売り上げを全額寄付するといったことはしていたんですよ。以前、炊き出しに行きたいとお客様に話したところ、交通費や宿泊費や材料費を含めて10万円かかるくらいなら、10万円を送ったほうが役に立つと言われ、なるほどなと…」
「やり始めると、お客様も協力したいからとその日はたくさん召し上がってくださいますし。親子丼の無償提供も3ヵ月ほど続けたんですが、SNSで広がり、知り合いのメーカーさんが容器を提供してくれたり、農家さんがお米を送ってくれたり、材料費を寄付していただいたりと協力の輪が広がりました。そういう拠点になれるのも、飲食店の良さかもしれません」
セコ蟹酢
当時は営業にも制限が多かったが、一人で切り盛りするようになり店の運営に自由度が高まったことで、体制の立て直しを進めていくうえでは良い期間にもなった。
「以前は蕎麦に集中していたんですが、今は蕎麦プラス別のメニューも考えるようになり、それもまた面白いです。季節に応じて食材が変わっていってくれるので、それに合わせて組み立てていくのもやりがいがある。コロナ禍が落ち着いてきてからは、あらためて接客の楽しさを噛みしめています」
造り盛り合わせ
料理人同士の交流で、新たな刺激を受け、世界が広がっていく楽しみもある。
人とふれあうことが何より楽しいという森本さんは、人との縁をとても大切にしている。学生時代の絆も今なお強い。
「今も飲食業を続けている友人が多く、出身地もバラバラだったから、日本各地にいろんなジャンルの仲間がいてありがたいです」
生ハムマスカルポーネ
「独立している人や海外で活躍している人も多く、話を聴くだけでも勉強になる。食べることもずっと好きなので、今も当時の友人の一人と各地へ食べ歩きに出かけています。刺激を受けたいと和食以外を選んで行っているんですが、和洋中を学んだおかげで調理法もだいたいわかるから、自分の料理に活かすこともできています。学校で習ったレシピも、いまだに活用していますよ」
だし巻き玉子
兵庫県丹波篠山市にあるガレット専門店『SAKURAI』のオーナーシェフ、櫻井龍弥さんと知り合ったのは偶然だったが、あるとき同窓生であることがわかり、さらに話が弾んだという。
ざる蕎麦
「お店の隣が、うちがお願いしている器の窯元さんだったんですよね。ガレットの材料はそば粉だから話題が尽きず、初めて会った日から意気投合。フランスのガレットコンクールに出場される際には、理想的なそば粉が用意できるよう、喜んで協力させてもらいました。本場で準優勝をされたことが、心から嬉しかったです。『SAKURAI』では、隣の作家さんの器を使って、華道家の先生が花を生け、櫻井さんがガレットを出して、シメに僕が蕎麦を出すといったイベントもさせてもらって。今度は『甚九郎』へ櫻井さんに来てもらう予定です」
『SAKURAI』での日本酒イベントにて櫻井さんと
ストレスも疲れも感じず、毎日遊んでいるくらいの感覚で、今が一番楽しい。
人に興味があり、楽しいことが大好きなので、お客様たちとの食事会なども頻繁に開催。テレビで取材に来られたのを縁に付き合いが始まった、お笑いコンビ・シャンプーハットのてつじさんらとは、日本酒をお米からつくる企画も毎年、続けている。
日本酒つくりのメンバー 左から、与謝娘酒造 西原さん、お米農家 西田さん、森本さん、シャンプーハット てつじさん
「お客様にてつじさんと同級生の方がいらっしゃって、どんどん話が盛り上がり、田んぼや醸造タンクも借りて造っているんですよ。お店で利き酒会も開いています。食を通じてつながった人たちとワイワイできるのがとても楽しい。本当にご縁がすべてです。料理をやっているからこそ関われた人たちが大勢いることも、ありがたいですね」
常連さんたちと楽しく長く続けることが目標だと森本さん。ここに来れば地位も立場も関係なく、フラットに話せるのがお酒を飲めるお店の魅力だという。
「毎日遊んでいるくらいの感覚で、今が一番楽しいです。一人で調理し、労働時間でいうと一般的な仕事よりはるかに動いていますけど、一日が終わって疲れたという感覚が全然ない。ストレスが一切ないからでしょうね。料理を食べるのも考えるのも自分にとって楽しみでもあるので、仕事の時間という分け方が難しいのかもしれません」
「日々、仕事にストレスを抱えている人も多いなか、自分の好きなことで食べていけているのは本当に幸せなこと。好きなものをつくって、お客様においしいと言ってもらって、調理も会話も楽しめて…これ以上ない仕事だと実感しています」
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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