INTERVIEW
No.110

江戸時代から続く菓匠の後継者として帰郷。和菓子店に洋菓子の新ブランドを新設して復興させ、理想の店舗を実現した。

株式会社 菓匠 萬菊屋 代表取締役 510Maison de cinq-dix(メゾン・ド・サンクディス) シェフパティシエ

後藤昌利さん

profile.
山形県出身。山形県立南陽高等学校の情報経済科(当時)を卒業後、大阪の辻󠄀製菓専門学校へ進学。1999年に卒業後、東京・錦糸町の『ラ・バンボッシュ』に就職。その後、神奈川・海老名の『パティスリー タダシ・ヤナギ』などで経験を重ね、2007年に帰郷。家業の『菓匠 萬菊屋』を継ぐとともに、洋菓子部門を設立。2015年には、新ブランドとして『510Maison de cinq-dix』をスタート。2019年11月に、和洋菓子店ではなく、同じ空間に専門的な和菓子屋と洋菓子屋が併設する形でリニューアルオープンを果たす。
access_time 2020.02.10

祖父の和菓子店と父のレストランを手伝い、迷いなく“食”の世界へ。

江戸時代後期、現在の山形県南陽市の赤湯温泉で創業した『菓匠 萬菊屋』。その代表取締役を務め、2015年には洋菓子ブランド『510Maison de CinQ-dix(メゾン・ド・サンクディス)』を立ち上げたのが、後藤昌利さんだ。
「父が和菓子の道に進まず、レストランを開いたんですよ。米沢牛のコース料理などをやり始めたら、ちょうどバブル景気の頃で繁盛し、店舗数も増やせて。今のこの店も、僕が子どもの頃はレストランに小さく和菓子店が併設される形になっていました」
祖父のもと、小学校の頃から和菓子の飾りつけなどを手伝っていた後藤さん。大人たちに混じって作業をするのが楽しく、愛着もわいていたというが、それ以上に刺激的だったのがレストランの手伝いだった。
「GWやお盆など、一番忙しい時期のライブ感が衝撃的だったんです。それを体感し、フランス料理の料理人に憧れが芽生え始めて…。ただ、製菓の道も視野にありました。デザートを提供した際、お客様の反応が良いのがうれしかったんですよね」
中学3年生の時点で、大阪の辻󠄀調理師専門学校と辻󠄀製菓専門学校のオープンキャンパスに参加。後継を視野に、当時は大学で経済学を学んだ後に専門学校へ進学するつもりでいたが、4年間のブランクが生まれることについて考え直し、高校で情報経済科に進学。1998年の卒業時に、辻󠄀製菓専門学校へ進むことに。悩んだ末に製菓を選んだのは、菓匠を継がなかった父の願いも影響していた。
辻󠄀製菓専門学校時代
「東京にあるほかの専門学校もいくつか見学したんですが、辻󠄀は設備も先生も魅力的で、通ってみたいと感じたんですよ。大阪校を選んだのは、育ってきた環境も文化も違う西日本の人たちと友だちになりたかったから。進学の機会を逃したらもう知り合えないと思ったんですよね」
辻󠄀製菓専門学校時代

いち早く就職活動を進め、「ここしかない」と確信した店舗を志望。

「関西に行って本当に良かったです。みんなものすごく積極的なんですよ。実習でも『これを担当したい!』と自己主張するのに圧倒され、自分もそうするべきだと変われました。学校はずっと楽しかったです。ノートを何冊も書き潰したし、外来講習では一番前の席で聴き入っていたし、高校までなら考えられないほど熱心に勉強しました」
同級生たちの書き込みがいっぱいの卒業アルバム
在学中はアルバイトをして食べ歩きを重ね、企業訪問もいち早く開始。夏休みで寮が閉まる期間は、東京に住む友人宅に居候させてもらって食べ歩きをした。
「東京のキラキラしたケーキが並ぶ様子にも感動して、東京で就職しようと決めたんです。2学期が始まってからは週末、夜行バスで東京に通って探し続けていました」
企業訪問を重ねるなか、進路指導の先生から勧められたのが錦糸町の『ラ・バンボッシュ』だった。
「『うちの卒業生だから』と教えてもらい行ってみたら、ケーキがキラッキラで『うわ、かっこいい!』と感動して…。そのとき、間中(道比呂)シェフに2時間以上もお話を聴かせてもらったんですよね。お客様のために大人数で働くチームワークの大切さや、大変だけどお菓子屋にはこんな喜びがあるというお話を伺い、『ここでやんないとダメだな』と確信。大阪に戻ったその足で、進路指導室に志望を伝えました」

素晴らしいシェフたちに師事し、仕事に対する姿勢や考え方を吸収。

「就職当時は目の回るような忙しさでした。技術はもちろん、勉強になったのは仕事に対する姿勢です。お菓子のつくり方がものすごく丁寧でしたし、お店をやるための哲学も学ばせてもらいました」
仕事はどれも興味深く、嫌になることは一度もなかったという。
間中シェフの教えもあり、先輩をはじめ人にはとても恵まれた環境だった。シェフには実家の話や、フランスへ修業に行きたい話など何かと相談もし、とてもかわいがってもらっていた。先輩たちも皆卒業し、4年目には仕事全体を任せてもらえるようになる。この頃、新しい経験を重ねようと決め、後輩への1年強の引き継ぎ期間を経て、2014年10月からは、先に同期が勤めていた神奈川県海老名市の『パティスリー タダシ・ヤナギ』に転職した。
「日本代表チームで出場された『クープ ドュ モンド』(パティシエの世界的コンクール)で準優勝され、デセール(デザート)部門で世界一をとられたシェフだったので、就職希望者も多かったんですが、『間中シェフのもとで5年間も勤めたのなら』と、柳(正司)シェフのほうからお声がけいただけてめちゃくちゃ嬉しかったです」
「柳シェフはお菓子のつくり方や考え方が理論的で数学みたいなんですよ。カリスマ性があって、私も働いている先輩たちも、とにかくスタッフ全員が心酔してました。交通の便も悪い丘の上にあるお店だったんですが、行列が絶えず活気にあふれていて、とても勉強になりました。クリスマスで、過去最高の売り上げを記録したのも嬉しい思い出です」

若いスタッフが続く店へと改革すると、徐々に経営が上向いていった。

実家のこともあり、当初から3年間しかいられないことを伝えていたが、勤めている間にもレストランと和菓子店の経営状況が悪化。両親から戻るように言われ、志半ばで帰郷することになった。
「渡仏に向けて、フランス語の教室にも通っていたんですけどね。帰郷した翌年あたりから、ヨーロッパへ修業に行く後輩たちが相次ぎ、置いて行かれている感じが切なかったです。それに中々お客様も来なくて…」
人が来なければ、ケーキをつくれるはずもない。そこで東京や神奈川の百貨店で行われる催事に出向くことにしたが、苦戦の連続。“見せ方”の大切さを知り、店舗のレイアウトも改善した。さらに自店の在り方を見直し、「若いスタッフが働き続けてくれる店にしよう」と改革に取り組んだ。
「若い人が続かないのが課題だったんです。嫁さんと相談し、自分たちはギリギリ食べていけるだけにしてでも、若い人を多く雇うようにして。みんなが自主的に手描きのポップをつくってくれたり、次につながる接客に努めてくれたりするようになると、『おいしかった』という声が増えていき、徐々に経営が上向いていきました」
商品が回転するようになると、「売れないから状態の良くない商品が並ぶ」という悪循環が断ち切られ、評判も鰻上りだった。その後2011年、神奈川での催事出店中に東日本大震災が起こったことが転機に。催事への出店も終わりにし、「山形で頑張ろう」という想いを強めていった。

洋菓子と和菓子の販売に特化。陳列が追いつかないぐらいの繁盛店に。

ずっとやりたかったのは、洋菓子ブランドの正式な立ち上げ。レストラン閉業後に準備を進め、2015年にスタートを切った。
「専門学校時代、後藤=510がフランス語で『サンクディス』だと知り、ブランド名に使いたいと思っていたんですよね(笑)。帰郷後すぐに始めたかったんですが、そんな状況でもなかったので…。
共に経営する和菓子職人の弟の後藤文利さんと
2014年には和菓子職人になった弟の文利が帰ってきたので、『兄弟経営は難しくて当たり前。“こんなはずじゃなかった”と思うのはやめよう』と話し合い、お互いの意見を尊重しながら店づくりをしていきました」
重視したのはまず、地元産のフルーツを使ったお菓子づくりだ。地元にいたら気づかなかった山形産の素晴らしさを伝えていきたいと、早い段階から試みた。
「柳シェフのもとで仕事をしていたときに、数多く届いていた山形のフルーツが本当においしく、それらを使った商品が喜ばれるのもうれしかったんですよ。田舎に帰ってきたら使いたいなと思っていました」
新ブランドの立ち上げ後も、レストランだった一部をカフェスペースにしていたが、洋菓子と和菓子の販売に特化することを決意。2019年11月に、和洋菓子店ではなく、同じ空間に専門的な和菓子屋と洋菓子屋が併設する形でリニューアルオープンを果たした。
「同じ店舗内に和菓子屋と洋菓子屋がある店づくりに挑戦してみたかったんです。扉も雰囲気も分け、家族づれでも人が多くても、ゆったり滞在してもらえるお店にしようと。今はありがたいことに、陳列が追いつかないぐらい忙しくさせてもらっています」

家業がある人こそ、できるだけ外で勉強したほうがいい。

ベテランと若手が高め合える店づくりが理想だと考える後藤さん。60歳や65歳を迎える職人たちが現れ始めたことで、定年退職制を撤廃した。
「現役で頑張っていた人を、いきなりバイト扱いにするのが嫌だったんですよ。今では若い人たちは上の人たちに頼るし、年配の人たちは若い人たちと一緒に働けることを喜んでくれていて、とてもいい雰囲気で仕事ができています」
高校生らのインターンシップ受け容れも毎年実施。これからの世代にも、「お菓子づくりの楽しさ」を伝えたいと語る。
和菓子・洋菓子のスタッフたちと
「それと同時に、損得ではなく良し悪しで物事を考えるよう伝えています。そうすると仕事のクオリティが上がり、お客様のためにもなり、結果それが上昇につながっていきますからね。今の若い人たちって、ものすごく知識とスピード感があると思うんですよ。一つ調べたらいろんな雑学も入ってくる時代ですからね。ただ、腕がついてきていない。その部分を感覚じゃなく理論的に教え、チームで動ける社会性も指導すれば、とんでもない力を発揮してくれると僕は思っているんです」
家業を継ぐ立場の人間は、チャンスもあれば制限もある。自身と同じ“後継ぎ”に対し、後藤さんはこうメッセージしてくれた。
「家業がある人こそ、できるだけ外で勉強したほうがいい。そして帰ってきたときには、実家の批判をするのではなく、外で学んだことをうまく取り入れ、地元で長く続けられるお店をつくろうと意識することが大切なんじゃないでしょうか。僕もまだまだこれからですが、振り返ってみると、その時々で精いっぱいの行動をしておいて良かったなと感じています」
奥様と

後藤昌利さんの卒業校

辻󠄀製菓専門学校 launch

辻󠄀製菓専門学校

洋菓子・和菓子・パンを総合的に学ぶ

フランス・ドイツ・ウィーンの伝統菓子から和菓子や製パンまで、多彩なジャンルでの学びを深めながら、クオリティの高い製菓技術を習得。あらゆる現場に生かされる広い視野を養い、
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