No.022
本場のパリで、日本人だからこそできるフレンチを、メイド・イン・ジャパンの“おもてなし”とともに。
ル・クロ グループ オーナーシェフ
黒岩 功さん
profile.
鹿児島県出身。辻󠄀調理師専門学校を1986年に卒業後、全国司厨士協会の調理師派遣メンバーとしてスイスへ。その後、フランスに渡り、二つ星の『ジラール・ベッソン』、三つ星の『タイユヴァン』、『ラ・コート・サンジャック』で修業を重ねる。帰国後は大阪や京都の有名料理店でスー・シェフ、料理長を務めたのち、2000年に独立。フレンチレストラン『ル・クロ』をはじめ、大阪市に3店を展開し、‘12年にはパリにも出店。‘14年には、兵庫県丹波市に校舎を改装した『ル・クロ丹波邸』をオープン。レストラン事業のみならず、ブライダル事業、人材派遣事業、ケータリング事業、プロデュース事業、福祉事業、出版事業など幅広く活躍。料理教室の講師や、食育をはじめとする講演などの活動も積極的に行っている。
access_time 2017.08.14
ル・クロ
誰もが気兼ねなく足を運べるフレンチレストランに。
『ル・クロ』を開いたのは2000年、31歳のとき。大阪の繁華街、西心斎橋の路地奥にあった小料理屋を改装してオープンさせた。
「独立前、どこかで外食しようと電話で探し、赤ちゃん連れでもOKと言ってくれたお店に行ったんですよ。客は僕らだけだったんですが、子どもが泣くとシェフにジロッとにらみつけられて。赤ちゃんを抱っこしながらだと食べにくいから、お箸をもらえないかと訊ねたところ、『うちはイタリア料理店なので、お箸は出しません』と冷たく断られたんですよね。もう嫁さんは半泣き。そしたら子どもがまた泣き出し、あやそうとホールを歩いていたら、スタッフが『あんまりウロチョロしないでください』って…。嫁さんはそのまま出ていって、僕ひとり取り残されたんですよ (苦笑)」
ル・クロ
こんなお店にはしたくない。見事な反面教師だった。ほどなくその店は閉店したが、その経験から、「赤ちゃんを連れて行けるフランス料理店があってもいいのでは」というビジョンが見えてきた。
「僕はフランスの三つ星でも働いていましたし、向こうの食文化も知っています。社交場という側面からすれば、子どもはお断りという店があるのも当然です。だけど自身のタイムリーな経験から、自分が開くときには、誰もが気兼ねなく足を運べるお店にしようと思ったんです」
大阪のフレンチレストランとして初めてパリに進出。
家族で団らんできるよう2階の座敷をあえて残し、赤ちゃんからお年寄りまで来られることを軸に据えた。
「開業先が元和食店だったのは偶然です。行きつけのバーのマスターが、2軒隣の店が空いたと教えてくれて。独立はしたかったもののお金がなかったから、掘りゴタツもそのままにして、あとはDIY。『お金がなくて和風だけど、逆にいいのでは』と捉え、赤ん坊の面倒も見ながら夫婦二人でスタートさせました」
ル・クロ
すると「掘りゴタツで箸を使って楽しめるフレンチレストラン」として評判を呼び、2年半後には、近くの東心斎橋に6階建てのレストラン『ル・クロ・ド・クロ』をオープン。フロアごとに異なるコンセプトを設定した。さらにその1年半後には、レストランウェディングも行えるチャペル併設の大規模店『ル・クロ・ド・マリアージュ』を大阪・天満橋に出店。婚礼のゲストそれぞれが好きな料理をチョイスし、自分だけのコースがつくれるプリフィックス・スタイルを、関西で初めて確立した。そして2013年には、修業時代からの念願だったパリに出店。大阪のフレンチレストランとしては初めての進出だった。
細やかな働きぶりが認められ三つ星への切符を手に入れた。
「絶対に三つ星レストランで働きたい」。スイスでの修業後にフランスへと移住し、100軒近くのレストランを訪ね歩いた。しかし時は1980年代。フランス語も話せない日本人を受け入れてくれる星つきレストランなんて、そう簡単には見つからない。困り果てた末、パリでパティシエを務める日本人女性がいると知り、協力を仰いだところ、ご主人が勤める二つ星の『ジラール・ベッソン』に話をつないでくれた。
ジラール・ベッソン氏と
「あとはシェフに直談判です。100軒近くも回ったおかげか、簡単な質問には答えられたんですよね。最後に給料について訊かれ、要らないと答えたら『今日から働け』と。入って2日目には、フランス語のできないことがバレましたが(苦笑)」
朝は7時前に出社。夜、料理人たちが帰ってからも、深夜2時までパティシエを手伝い、貪欲に吸収した。常に周りをよく見ながら、細やかに動く。そんな働きぶりが評価され、「これだけ頑張るなら、もっと上をめざせばいい」と、シェフが三つ星の名門『タイユヴァン』への紹介状を書いてくれた。
自信と誇りをもった三つ星料理人。スイッチの入る瞬間に鳥肌が立った。
「三つ星クラスになるともう、すべてが神の領域。働くメンバー全員のモチベーションが、恐ろしいまでに高いんです。ロッカールームだとだらしがないのに、朝7時になった瞬間スイッチが入り、自信と誇りをもった三つ星料理人の姿で調理場へ飛び出して行く。これだけ人って変われるんだと、いつも鳥肌が立ちました。凄まじい集中力を掛け合わせたエネルギーで、素晴らしい料理ができる。それを実体験し、いつかは自分もこういう集団をつくりたいと考えていました」
ラ・コート・サン・ジャック・ジャン・ミッシェル
家賃を得るため、土日は和食レストランでのアルバイトをしながら、懸命に努力を続けた。三つ星店も黒岩さんの気配りを評価し、「もっと違うタイプの三つ星を見てみないか」と『ラ・コート・サンジャック』を紹介。パリとリヨンとの間、周囲に店もなく、そのためだけに来店される川辺のシャトーレストラン。都心部の三つ星とはまた別の最高基準を目の当たりにした。しかし周りに何もないがゆえに、生活費を稼げない。やがて帰国を余儀なくされる日がやって来た。
「最後、凱旋門の下まで行って、『絶対にいずれ戻って来る。今度は修業じゃなく、自分の店をもつ』と誓って帰ってきたんですよね。それが26歳のときでした」
フランスで働いてみたいというスタッフの夢をかなえる拠点に。
「長年の夢だったことに加え、メンバーたちの新たなステージをつくることが、パリに出店したもう一つの理由。フランス料理をやっている以上、『いつかフランスで働いてみたい』と思うのは当然です。実行する場合、先に渡仏している先輩たちを頼って、きっかけをつくるのですが、やがて先輩たちも帰ってくる。常に頼れるとは限りません。でも向こうにお店があれば、見通しがつきやすいんですね」
頑張ればパリで働けるという目標点があれば、ずいぶん心強い。しかし出店の決め手は人。担い手となるメンバーは、ル・クロ グループが大切にしている、家族のような関係性から見つかった。
「14年間働いていたメンバーに、『それだけ実力をつけたのだから、そろそろ独立したほうがいいんじゃないか』と訊ねたところ、『いや、僕はまだまだムッシュと一緒に仕事をしたい』と。『だったら俺には夢がある。その拠点をつくってくれないか。お前も向こうで、自分のステージとして頑張ってくれたらいい。それができるならパリにお店を出そうと思う』と言ったら、すぐに『やりましょう!』と答えてくれたんです」
ル・クロ・イグレック(パリ)
三つ星レストランでも評価された日本人特有の気配り心配りを世界へ。
店名は、池田佳隆(よしたか)シェフの名前のYを取り、『Le Clos Y』=『ル・クロ・イグレック』とした。遠く離れたパリのマネジメントは大変じゃないかとよく訊かれるが、まったく苦に感じたことはないという。
「毎日メールで報告も来ていますが、リーダーとして立派に活躍してきてくれたシェフなので、安心して任せていられます。僕らが提供しているのは、日本人だからこそできるフレンチです。フランス人がつくるものとは違います。日本人がもつ味覚や繊細さが表現されればいい。そして日本人が手がけるレストランならではの“おもてなし”を体感できる場所にしています」
サクラの一枚板でできたカウンターテーブルをシンボルに、お箸も用意。うまく使えるようアドバイスもする。そんな細やかなサービスも人気を呼んでいる。
「日本は、お伺いを立てる文化です。日本語自体、語尾で伝えたいことを変えられるでしょう。話しながら相手の表情や態度を伺いつつ、自分の言動を変える。日本人の得意技です。そういう日本人特有の気配り心配りを、三つ星レストランでも評価された経験が、僕の自信にもなっています。“おもてなし”こそが、メイド・イン・ジャパン。日本が世界に誇れるサービス魂をもとに、国内外に喜びを届けていきたいですね」
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
話題になっている記事
食から拡がる様々な業界で働く