No.047
山菜の背景にある物語ごと味わってもらうため、「“山菜料理”専門の宿」の4代目としてめざすのは、素材そのものの個性を活かした料理。
山菜料理旅館『出羽屋』 四代目
佐藤 治樹さん
profile.
山形県西川町出身。高校卒業後、大学進学のため東京へ。経営や観光について学ぶかたわら、料亭やホテル、コンサルティング会社や広告会社などで経験を重ねる。大学卒業後、エコール 辻󠄀 東京の辻󠄀日本料理マスターカレッジへ進学。卒業した2012年の春、実家に戻り、家業である山菜料理の宿『出羽屋』の仕事に従事。現在は常務取締役として、営業や調理、運営などを担う。
access_time 2018.02.02
後継への葛藤を払拭してくれた、祖父の「天職だった」という言葉。
「幼い頃からおじいちゃんっ子だったんですよ。市場へもついて行って、調理場にも入れてもらって。なんでも教えてくれる、教科書みたいな人でした」
山形県の中央部、西川町にある『出羽屋』を、“山菜料理”専門の宿として確立させたのは、佐藤治樹さんの祖父にあたる二代目の邦治さんだった。治樹さんには高校時代、ずっと続けてきたバレーボールによる推薦入学の話があったものの、家業のことを考えて東京にある大学の観光経営学科へ進学。
祖父の邦治さんと大女将の佐藤喜久子さん
「家業を継ぐことに対し葛藤もあったんですが、晩年の祖父に訊ねたところ、自分は良かったと思うと答えたんです。もともとは学校の先生になりたかったけれど、こんなにも『ありがとう』と言ってもらえる幸せな仕事はない、天職だったって。僕以上に葛藤したであろう祖父が、歳を重ねた末に笑顔でそう断言してくれて、迷いが吹っ切れました。最期、病院へ入院していたときも、いろんな人がお見舞いに来てくださって。ずっとニコニコしているから、自然と人が集まってくる。ああ、この人はすごい、こんな存在になれるなら…と素直に感じました」
祖父の邦治さんと
将来を見すえ、大学に通いつつも料亭やホテル、コンサルティング会社や広告会社で働き、できる限りのスキルを身につけようと努めた。短い期間で何をすべきか考えながら送った大学生活。卒業後はしばらく社会経験を積み、やがて実家に帰ろう。そう考えていたが、大学3年の頃、邦治さんが他界。
「祖父が亡くなり、出羽屋のイメージが一気に変わったんです。それだけ影響力のある人でした。両親からは『できるだけ早く帰ってきてほしい』と言われ、早急に料理を勉強する必要があったので、1年間でどんなことが学べるか、あらゆる学校を比較検討して。最もカリキュラムに魅力を感じ、自分に合っているなと選んだのがエコール 辻󠄀 東京でした」
山菜料理『出羽屋』厨房
現場の声に耳を傾け、前に進み続ければ、スタッフの意欲も高まる。
大学を卒業すると、エコール 辻󠄀 東京の辻󠄀日本料理マスターカレッジへ進学。大学時代と同じく、築地にあった料亭でも働き続けた。
「エコールでは、技術や『なぜ、こうするのか』といった科学的なことに加え、料理に臨む姿勢も勉強になりました。料亭で働けていた分、学校での流れと現場での流れを比べながら学べたのも大きかったです。『出羽屋』に戻れば営業活動もありますし、将来、トップに立ったとき、いかに現場の声を聞きながら引っ張れるか、どうすればついてきてもらえるかを、さまざまな視点から考えていました」
「現場」の山々
卒業後、実家へ帰ると、すぐに現場から現場へと飛び回った。調理場に入ることはもちろん、山菜採りの名人たちとともに山に入り、農家のもとを訪ね、魚河岸にも足を運んだ。
「食材に目がいきやすいのは、もはやクセですね。わからないことがあれば農家さんのもとへ直接伺いますし、魚なら自分で船に乗って釣りにも行きました。生産者さんの想いを聴かなければ、自分もお客様に伝えられない。なぜこう調理したかも語れません。山菜についてどう発信すべきかを知るためにも、山だけでなく山菜採り名人たちのお宅にもお邪魔しました」
生産者の高橋伸一さんと
時間がある限り、調理場にも入り続けた。自分はトップダウン型ではなくボトムアップ型の人間。気質から考えても、現場の声を吸い上げてまとめるタイプの経営をめざすべきだと考えていたからだ。周囲の人々によると、治樹さんは祖父の邦治さんに、話し方や考え方、仕事への取り組み方など多くの部分が似ているという。
妹の明希菜さんも厨房を手伝う
「一緒にいる時間が長かったですし、憧れの存在でしたからね。大学時代、祖父の具合が悪くなり休みの度に帰省していたんですが、80歳になっても調理場で包丁を握っていました。そうすると、いろんな人が寄ってきて、話しかけてくれる。自分もそうありたいなと」
経営の多角化も一時は考えた。しかし現場を見ることで、やはり山菜料理に特化して打ち出していこうと決意。個性の強い山菜の魅力を最大限に活かせるよう、丁寧につくりあげることにこだわった。
一方で、メニューの構成は一気に変えた。素材にも徹底してこだわり、仕入先や仕入れるものも変更。現代のニーズに合わせ、多くの種類を少しずつ楽しんでもらえるようにすると、当然、繊細な作業も増える。当初は反発の声もあったが、成果が出てきたことでムードも変わった。
出羽屋の山菜料理
「実家へ帰ってきてからは、素材を選んだ理由など明確なこだわりを発信するようにしました。すべて言葉で説明できるよう、スタッフともしっかり情報を共有して。ものの背景にあるストーリーを語れることは、お客様に選んでいただくための重要な要素ですからね。もともとリピーターのお客様がとても多いんですが、さらに増えてきましたし、おかげさまで売上も落としていません。前に進み続けることでスタッフのモチベーションも高まりますから、数字も意識するようにしています」
山菜そば
料理に言葉を添えて、山菜採り名人たちの姿やこだわりを発信したい。
「山菜採りの名人は、素人の僕らとは見ている景色が違います。ぽそっと発する一言に物語があったり、生でパリッと食べる姿に重みがあったり。料理に言葉を添えて、この様子を発信したい。今、自分が感じている山のにおいを、料理で伝えられないか。そんな発想もわいてきます。ひたすら汗をかいて登っていくと、これだけ大変なんだと体感できますし、どう伝えたらお客様が喜び、また足を運んでくださるのかも、黙々と考えられるとても良い時間です。県外の方が山形に求めるものは、きらびやかなものではなく、ほっとする田舎らしさ。そこからはずれないように、料理を考えています」
茸「ムラサキシメジ」
離れてみて気づいた、郷土の“らしさ”。山形には食べ物だけでなく、良いものをつくっている人がたくさんいる。そういった魅力も発信していきたいという。
「『出羽屋』にいらっしゃるお客様は、温泉街や観光地ではなく、宿そのものを目的に足を運ばれる方が圧倒的に多い。その意義はしっかりと受け留めています。
出羽屋の中庭
現在、進めているのは、ここへ来たくてもいらっしゃれないお客様に向けたお弁当。山形市内唯一の桐箱職人のもとを訪ねて器をオーダーし、風呂敷も地元産、オール山形で構成する予定です。自分は“食”しかつくれませんが、食には何かをつなげ、広げていける力があると思います」
日本へ来る外国人観光客の増加にともない、『出羽屋』にも海外からのお客様が増えてきた。しかし山菜になじみのないエリアは多い。台湾や韓国から来る人たちや、ベジタリアンには受け容れてもらいやすいが、ヨーロッパ系の人たちは独特の苦みやえぐみを敬遠する傾向にある。
治樹さんは、東京をはじめ各地での営業活動にも尽力しながら、海外に向けた発信の仕方も模索している。
「山菜は、やはり何度か食べて学習することで、“おいしい”の基準が変わっていくというか。年を重ねてから好きになる人が多いのも、学習の面が大きいと思います。何度か東京で外国人向けのイベントにチャレンジし、たとえばハムと合わせてソテーにするなど、組み合わせと調理法次第で好まれることはわかってきました。ただ、個人的には背景にある物語ごと味わってもらいたいので、素材そのものの個性を活かしたい。その両立をめざしているところです」
出羽屋の客室
「なぜ精進料理じゃないのかと訊かれることもありますが、精進料理は修業のためのもので、山菜を使った料理はもともと、地元の人々が生き抜いていくためのものでした。採れない地域からしたら山菜は珍しいものではありますが、発祥から考えると“生きるための料理”だという点は、ぶれさせたくないんです。ここにはずっと受け継がれてきた食文化がある。それを日本全国の人たちはもちろん、海外の人々にも伝えていきたいですね」
エコール 辻󠄀 東京
辻󠄀日本料理マスターカレッジ
(現:辻󠄀調理師専門学校 東京)
日本料理の奥深さに触れながら、
1年間で徹底的に本物の技術を学びとる。
1年間、日本料理だけを徹底的に。本物と一流にこだわった環境で、
日本料理の奥深さやおもてなしの心を会得する。
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