No.130
高校の調理科で出会った恩師が人生の目標に。師と同じく日本料理の専門校で学び、そこでの教職を経て、母校の教壇に立つ夢を叶えた。
三重県立相可高等学校 食物調理科 教諭
西岡宏起さん
profile.
三重県出身。三重県立相可高等学校 食物調理科から大阪の辻󠄀調理技術研究所 日本料理研究課程(当時)に進学。2006年に卒業後、教員として辻󠄀調グループに入職。大阪校、東京校での勤務を経て、2020年4月、相可高等学校に赴任。
access_time 2021.03.26
(左)西岡宏起さん、(右)村林新吾さん
調理姿も立ち居振る舞いもすべてが格好いい、先生のようになりたい。
三重県の中央部、多気町にある『まごの店』は、高校生が運営する日本初のレストランだ。母体となっているのは、三重県立相可高等学校 食物調理科のメンバーが所属する調理クラブ。そのOBである西岡宏起さんが同科に教員として戻ってきたのは、2020年4月のこと。
初代 まごの店
「僕が高校1年の秋に、『まごの店』ができたんですよ。向かいに農産物直売所『おばあちゃんの店』があったことで名づけられたんですが、最初は今の店舗じゃない、小さな屋台で。土日に3~4人ずつ働く形でしたが、実務を経験できたのは大きかったです。お金をいただいている以上、甘えは許されない。お客様への感謝の気持ちや責任感も高まりました」
『まごの店』の厨房にて
小学生の頃から、家で手伝いをしているうちに料理が好きになったという西岡さん。1年生の文集には、将来の夢は料理人だと書いていた。
「中学校に入った頃には、三重県で唯一、調理師免許がとれる高校だった相可へ進学しようと決めていました。ただ『好き』という気持ちだけで入学したんですが、そこで食物調理科担当の村林(新吾)先生に出会い、すぐさま圧倒されて…。調理される姿も立ち居振る舞いも、すべてが格好よく、『先生のようになりたい』というのが大きな目標になりました」
相可高校時代 村林先生と
調理を学ぶのは、1学年20人ほどのコース。実習前の授業終わりには、チャイムが鳴った瞬間、みんなで駆け出すのが恒例になっていたという。
「前の席の取り合いです(笑)。先生の技術を一番近くで見られるうえ、試食もさせてもらえますからね。先生の料理は、どれもこれも食べたことがないほど、とにかくおいしい。毎日が衝撃の連続で、少しでもいいから試食させてほしいと必死でした」
いまでは上司となった恩師、村林さんも懐かしそうに振り返る。
「10分間休憩のとき、早く来た生徒たちには自分の経験談や料理の世界の話なんかをしてね。自分が教えてもらった先生のように、情熱をもって接してました。そもそも料理が好きやから、習っとる子らも好きやし。西岡先生は試食もつまみぐいも、ようしとった (笑)。でもそれぐらい興味をもって学んでほしいんです。端っこでいいから味見したいと言えるようになったら、こいつ覚える気やなと、うれしくなる」(村林さん)
教えることで自分も成長でき、それが楽しさに変わっていった。
調理クラブのメンバーは、『まごの店』での調理や接客に加え、地域のお祭りへの出店や特産品を使った商品開発、出張料理教室の助手を務めるなど、ほかではできない経験を積んでいた。
「料理教室では、最初に村林先生が講習を行い、その後に生徒がインストラクターになって地域の人たちに教えるんですが、そこで初めて人に教える難しさもやりがいも感じました。常にできるレベルになるには、とにかく練習を重ねなければいけません。教えることで自分も成長でき、それが楽しさに変わっていきました」(西岡さん)
「高校生でも先生は先生やからね。ちゃんと教えられんかったら怒ります。間違ったことを教えて、生徒さんが信じ続けたら大変なことになる。『また習いに来たい』と思う生徒さんになってほしいもんで、言葉使いも厳しく指導して。ハラハラした状態でなく、確実にできる子だけを連れて行っていました」(村林さん)
村林さんへの憧れに加え、料理教室での経験も相まって、2年になった頃には教職に就こうと決めていた西岡さん。
「和洋中と習うんですが、先生の専門が日本料理だったので、自分もその道へ進もうと。日本の素材を大事にして調理し、目でも楽しめる部分にも、強く惹かれていました」(西岡さん)
「西洋料理や中国料理も、おいしくはつくれても、料理に対する物語やロマンは語れやんのさ。でも日本料理は自分が教えてもろたこと、体感したことを言えるので、説得力があったんでしょうね」(村林さん)
「先生がもともと大阪の辻󠄀調(辻󠄀調理師専門学校)で学び、そこで10年間、先生をされていたので、自分もちゃんと勉強して、教員の経験を積んでから10年後、相可に戻ってこようと。そう心に決めて卒業しました 。先生には一回も言ったことありませんけどね(笑)」(西岡さん)
その告白に対し、「初めて聞いた」とうれしそうな村林さん。「相可での高校時代は、人生のなかで一番充実した3年間でした」と西岡さんは目を細めた。
先生たちのもとで、もっと料理を勉強したい。新たな憧れも芽生えた。
さらなる技術を磨くため、大阪にある辻󠄀調グループ校、辻󠄀調理技術研究所の日本料理研究課程(当時)へ。高校の3年間でやってきたことは間違いじゃなかったと確信するとともに、日本料理のさらに素晴らしい部分、奥深さを体感できた。
「話には聞いていましたが、辻󠄀調の先生の教え方にあらためて感激しました。高校でも『なぜこうするのか』を学んでいましたが、さらに高度な知識や、高校ではできなかった技法も教えてもらえました。三重にはないような食材にも、たくさん触れられましたし。印象深かったのは、ある実習で『料理に没頭しろ』と怒られたこと。自覚はなかったんですが、気が緩んでいたんでしょうね。しっかり向き合わないと、それが料理に出てしまうんだと気づかされました」
辻󠄀調の先生たちのもとで、もっと料理を勉強したい。辻󠄀調グループの教員は、もともと志していた道ではあったが、新たな憧れが芽生えたという。
「なかでも担任だった先生の話術にやられました。人を惹きつける講習をされ、熱意もすごい。魅せる料理ができる方だったので、この先生と一緒に働いて、日本料理をもっと深く掘り下げたいと思うようになっていました」
生徒と向き合い、生徒が成長していく姿を見るのが一番のやりがい。
卒業後は、辻󠄀調グループに教員として就職。目の回るような忙しさだったが、確固たる目標はぶれず、仕事も苦にならなかった。4年目には東京校(エコール 辻󠄀 東京)へ転勤、さらに幅広い仕事を任された。
『高校生レストラン』のドラマ撮影時のスナップ
「『まごの店』がモデルになった2011年のテレビドラマ、『高校生レストラン』に出てくる料理をつくらせてもらったんですよ。村林先生役だった主演俳優による、調理シーンの手の演技も担当。先生の手さばきを自分が演じるなんて、感慨深かったですね」
辻󠄀調グループの教員時代
8年目には実習も教科も教えられる、憧れだった“先生”になれた。
「関西の料理とはまた違う、東京の料理が知れたことも大きかったです。料理に対する考え方、食材に対する向き合い方も違いますし、それを相可での教育のエッセンスにも加えられたらなって」
2017年に参加した「第6回日本料理コンペティション」の東京予選では見事優勝を果たし、全国大会へ。「常に挑戦し続ける姿を生徒に見せたかったし、出るからには勝ちたかった」と西岡さん。
日本料理コンペティション参加時
「やっぱり生徒が第一。生徒と向き合い、生徒が成長していく姿を見るのが一番のやりがいです。辻󠄀調には『教えることで学ぶ』という考えが根づいているんですよ。自分が高校生のときには気づきませんでしたが、料理教室なんてまさにそうでしたし、村林先生は『教えること』を僕たち生徒の学びにもつなげてくれていたんだなと、働き始めてから気づきました。技術をまねるのではなく、なぜこうするのかという理由の部分まで知っておかないと教えるのは無理ですからね」
教員を務めていて、最も感動するのは卒業時とのこと。
「担任していた生徒たちがメッセージをくれるんですが、僕自身が忘れているような言葉も、みんな覚えてくれていて。『先生にこう言われたから今の自分がある』なんて言われると、感激で胸がいっぱいになります」
どうすれば効果が出るのか、恩師と相談しながら指導にあたれる喜び。
辻󠄀調グループの教員になり14年目、ようやく夢を叶える機会が訪れた。恩師である村林さんが2020年度末に定年を迎えるため、指導を引き継ぐことになったのだ。村林さんは言う。
「小さな公立高校やもんで、これまで2人目を入れられなかったんですよ。西岡先生とは20年違っても、基礎は同じ。一緒のように学び、教えてもらっとったもんで、打合せせんでもパッと授業に入れる。このレベルは普通の人じゃ無理です。やっぱり10年は経験がないと」(村林さん)
「時代によって技法は変わりますが、昔のやり方と今のやり方、両方理解しているつもりですし、何より大枠の基礎は変わりませんからね。先生の横にても、次どう行動されるか、何をほしがっておられるのかは、何パターンか頭のなかに用意できています。どういう選択をすれば教育的な効果が出るのか。先生と相談しながら指導にあたれるのもうれしいです」(西岡さん)
基礎ができていなければ、その後の応用も身につかない。技術に限らず、心構えや姿勢などの精神面も同じことだ。変化球を投げるのは社会に出てからでいい。精神的にも技術的にも基礎がしっかりしていれば、多少のことでは揺らがず飛びたっていける。それが二人の大切にしている、教育の核だという。
「退職して去るにしても、形のない教科書はできていて、それを引き継いでくれているから、相可高校のレベルは変わらないし、なんの心配もしていません。生徒を怒れるのも、信頼関係があってこそ。生徒は教師の鏡やから、こうして西岡先生が育ってくれたってことは、村林もちゃんとしとったっていうことです(笑)。よくできた卒業生が先生になって戻ってきてくれるって、最高やよね。ほかの学校の先生らは羨ましいと思うよ」(村林さん)
料理人も教員も含め、食を通じて人を幸せにするのが自分たちの仕事。
「生徒のやる気出させるためには、“すごさ”を見せるのも大切です。手本を見せたり、生徒ができるようになるポイントをアドバイスしたり。言われてできるようになると、『先生すごい』と感じてもらえますからね。自分が教えたことで、生徒ができるようになることが、この仕事の大きなやりがいです」(西岡さん)
「やる気を湧かせるには、一褒め、二褒め、三褒めさ。料理で、できやん基礎ってないんですよ。大根のかつらむきも、人参で花つくるのも、練習を重ねれば確実にできるようになる。何が先生と違うんかわかったら、あとは努力あるのみです。褒められて頑張るのも大事やし、怒られたり恥ずかしい思いをしたりして『なにくそ!』と向かう気持ちも大事。だからコンピュータではあかんのさ。やっぱしそれは、生身で接してこそのもんやからね」(村林さん)
「褒める部分は褒めて、生徒に考えさせて、気づきをたくさん与えてあげるのが大切なのかなと。小さな気づきの積み重ねが、新しいものを生みだしたり、壁を乗り越えたりするための力になるでしょうから」(西岡さん)
今後の目標について、「今までと変わらず、しっかり育った卒業生を送りだしたい」と語る西岡さんに対し、「そら大丈夫さ。安心しとる」と村林さん。「じゃあ今まで以上の卒業生を」と笑いつつ、西岡さんは未来のことを語ってくれた。
「60歳になったとき、村林先生のようになっているというのも、新たにできた目標です。食にまつわる仕事は、絶対になくなりませんからね。…料理人は生産者と消費者とのつなぎ役です。真ん中に立つ人間が、食材のことをよく知って、それに対して最高のアプローチをすれば、消費者には最高の料理が届けられます。するとおいしさが感動を呼び、喜びにつながっていく。それが僕たちのやりがいにもなる。料理人も教員もすべて含め、食を通じて人を幸せにするのが、我々の仕事だと思います」
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