INTERVIEW

地元で育まれてきた食文化を料理で紹介するのも、私たちの役割。先人たちが大切に守り伝えてくれた土地の知恵を、後世に残したい。

山菜料理旅館『出羽屋』 四代目
佐藤 治樹さん

profile.

山形県西川町出身。高校卒業後、大学進学のため東京へ。経営や観光について学ぶかたわら、料亭やホテル、コンサルティング会社や広告会社などで経験を重ねる。大学卒業後、エコール 辻 東京の辻日本料理マスターカレッジへ進学。卒業した2012年の春、実家に戻り、家業である山菜料理の宿『出羽屋』の仕事に従事。現在は常務取締役として、営業や調理、運営などを担う。

今では“趣味食”とされる山菜も、もとは生活のためのものだった。

『出羽屋』のある西川町の間沢は、月山(がっさん)をはじめとする出羽三山への登山口の一つ。古くから、三重県・伊勢神宮への参詣は「西の伊勢参り」、山形県・出羽三山への参詣は「東の奥参り」と呼ばれていた通り、出羽三山は山岳信仰の対象だった。山へと続く六十里越(ごえ)街道は、1200年も前から利用されてきた信仰の道。全国各地からやって来る行者(ぎょうじゃ)が後を絶えなかったという。
山菜「こごみ」
以前は休憩地点とされていた間沢だったが、大正時代に入り、出羽三山へと向かう鉄道が敷かれ、昭和3(1928)年、終着駅となる間沢駅が開業。隣町で暮らしていた初代の佐藤彦太郎さんが、この地にも行者のための宿が必要になると考え、翌年に誕生させたのが『出羽屋』だった。しかし4代目の治樹さんによれば、当時は今のように山菜料理の宿ではなかったとのこと。
山菜「根曲り竹」
「今でこそ山菜は自然の恵みとして風味を珍重され、“趣味食”としてもてはやされるようにもなりましたが、もとは飢えを凌ぐ意味合いが強く、穀類の乏しさを補うための食材でもありました。開業当時もまだ、山菜は“山のもの”と言われ、材料の一部として使うことはあっても、お客様に振る舞うようなものではなかったのです
大正時代から受け継がれる初代看板

土地でとれるものを、土地の人が調理してこそ、名物料理は生まれる。

西川町は、全国有数の豪雪地帯。海から遠く離れ、半年は雪に埋もれてしまう山国だが、月山では山菜が豊富に育つ。そんな“山のもの”を“山菜料理”に仕立てたのが、二代目の邦治さんだった。大女将(二代目女将)の佐藤喜久子さんは語る。
大女将(二代目女将)の佐藤喜久子さん
「私が嫁いできたのは昭和27(1952)年でしたが、主人は毎年、閑散期の2月になると、山形名物のお菓子を持って、おいしい料理を習いに全国各地へ足を運んでいました。誠意をもって訊けば、誰でも教えてくれるって言っていましたよ。だけど、よそへ行ってみてわかったんですね。名物料理は、その土地でとれるものを、その土地の人がつくって初めて生まれるものだと。昔から食べていた“山のもの”のおいしさに改めて気づいたそうです。それで山菜を使った料理をお出ししようと考えたんですが、最初からつくりあげるのは大変苦労しました」(喜久子さん)
大きな皿に盛るより、小分けにしたほうがいいけれど、割烹の食器では合いません。だから、わざわざ有田(佐賀県)まで行って、山菜に合う伊万里焼の食器もつくってもらったりしてね。お客様に喜んでもらえるものにするために、一生懸命考えていました」(喜久子さん)
当時は「山のものを客に出すとは、頭がおかしくなったのか」とも言われたそうだが、その評判は徐々に拡大。やがて人があふれるほど押し寄せ、“山菜ブーム”が訪れることになる。
「わざわざ遠くから来られても、お客様が多すぎてご用意できず、お断りすることが増えてきました。だから誰でもまねできる山菜そばを、みんなのために発案したんです。おそば屋さんを連れて来て、定食屋や民宿のお母さんたちに講習会をし、タレの作り方やら入れるものやらを教えました。芋煮にも使ってる鉄鍋に、たっぷりの山菜やきのこを入れて、どこのお店でも出せるものにしたんです」(喜久子さん)
山菜そば 芋煮にも使ってる鉄鍋でつくる
地元の粉でつくったそばを、鉄鍋に入った山菜汁で味わう「月山山菜そば」は、やがて西川町の名物となる。観光客の増加など地域活性化にもつながり、行政からの表彰も受けた。具材は季節によって変えるが、山菜は10種類以上、きのこは5種類以上入れたほうが、うま味が出てよりおいしくなるという。山菜の宝庫ならではの逸品だ。
山菜そば
「周りの人たちに喜んでもらうことばかり考える人でした。昔の恩返しだとばかりに、山菜料理を習いに来る人がいると、誰にでも教えていましたし。調理場にも入り続けて、最期まで経営者というよりも職人だったんですよね。私も山菜やきのこは、朝昼晩、ずっと食べていますが飽きたことがありません。それだけ魅力のあるものだと思っています」(喜久子さん)

三世代にわたって来ていただけるお客様も多く、時代のつながりを感じられる。

月山は標高が低い割に気温も低いため、高い山に生えるはずの山菜も幅広く分布。300種以上もの品種に恵まれている。夏でも雪が残り、春先から7月頃までと長期間にわたって採取が可能。良い山菜が育つ条件のそろったエリアだ。治樹さんの母にあたる、三代目女将の明美さんは話す。
三代目女将の明美さん
「山菜やきのこは、繊維質が豊富でカロリーの少ないヘルシーなもの。山菜というと、以前は年配の方に好まれるイメージがありましたが、近頃は健康に気遣う若い方が召し上がりにいらっしゃることも多いです」
近年、『出羽屋』では、「山菜交流会」や「きのこ交流会」などと題し、生産者と消費者の交流会も催している。採取体験のイベントを行うこともあるという。
東京で開催のイベントにて
「山菜採りの苦労を知ることで、食べる人の価値観が変わりますし、採ってくる人たちも、どんな人たちが食べてくれるかに興味があるようで、双方に喜んでいただいています。そういった人と人とのつながりは、かけがえのないもの。『出羽屋』には、三世代にわたって来てくださるお客様も多く、時代のつながりも感じられます。子どもの頃、ご両親に連れて来られたという30代の方が、お子さんを連れていらっしゃったり。『ただいま』と、代を継いで来てくださる。山菜料理には、それだけのインパクトがあるようです。ただ食べに来るのではなく、味を通じてつながり、広がっていくのが、この仕事のありがたいところだと感じています」

山菜を採る後継者不足は大きな課題。より需要を高めていきたい。

西川町では、山菜を早朝の3~4時に山へ入って採取し、通気性のいいカゴに入れて午前中には戻って来る。あまり知られていないが、山菜は鮮度が命。強そうに見えて、強くない。日中になると、蒸れてしなびてしまうが、このあたりは他のエリアに比べ、涼しい時間に山を降りてこられるから、傷まないうちに下処理ができるという。持ち帰るとすぐに葉を落とすなど、できるだけ早く処理をする。
また、春や秋に採れた山菜は乾物や塩漬けにし、保存食とするのが古くからの伝統だ。治樹さんは「受け継いだ料理文化を後世に伝えていかなければ」と考える。
「アク抜きや戻し方も、山菜の種類ごとに最適な手順や方法があります。ゆがいてから一晩、水にさらすこともあるので、水も重要。おいしい水に恵まれているのも、このあたりの大きな財産です。今こうして、春夏秋冬にわたって山の味覚を楽しめるのも、先人たちが大切に守り伝えてくれたおかげ。土地の知恵の賜物です。地元で育まれてきた食文化を料理で紹介するのも、私たちの役割だと考えています」
春や秋に採れた山菜は乾物や塩漬けにし、保存食とするのが古くからの伝統
一方で、山菜料理も四季でサイクルさせたいという想いもあると言う。
「日本には四季があり、たとえば冬なら身体が温かくなるものを欲するようになる。春は、冬に肥やしたものを出したくなるので、潜在的に苦みを欲するようになっていて、そのなかに山菜が入っているんですよね。だから夏場なら体温を下げるキュウリのなかでも、たとえば山形の在来作物である勘次郎胡瓜に山菜を合わせるなど、苦みとは違う打ち出し方をしていければなと」
実は山菜は、林業と密接に関わっている。ある程度、木を切ることで日光が入って育ち、土壌の栄養も回るが、近頃は木材の輸入が増加することで伐採も減り、山菜の収穫量も減少。同時に、採取する後継者がいないのも大きな課題となっている。
江戸時代の蔵を移築した「蔵座敷」
「山菜採り名人の高齢化が進んでいますが、お子さんがあとを継ぐところはほぼありません。兼業でしか成り立たないことも、その大きな要因です。プロフェッショナルの力が必要な仕事なのに、プロが育たない状況になってしまっています。その状況を打破するためにも、山菜への需要をより高めていきたいです。山菜やきのこは失われつつある野や山の香りを感じさせてくれる貴重な食べ物。こんな時代だからこそ、山菜料理を食べて、山形の食文化の素晴らしさを感じていただければ本望です」
左から、母で女将の明美さん、妹で料理人の明希菜さん、父で三代目大将・料理長の治彦さん、大女将の喜久子さん、四代目の治樹さん、若女将の悠美さん

佐藤 治樹さんの卒業校

エコール 辻 東京 日本料理マスターカレッジ launch