INTERVIEW
No.054

サービスの上達に必要なのは、才能ではなくトレーニング。日本で初めて世界一のメートル・ドテルになれたのも、努力を重ねたからこそ。

Fantagista21 代表/メートル・ドテル

宮崎 辰さん

profile.
東京都出身。エコール・キュリネール国立(現・エコール 辻󠄀 東京)からフランス校へ。1996年に卒業後翌1997年に東京・国分寺のレストラン『シェ・ジョルジュ・マルソー』に就職。芝『クレッセント』を経て六本木『グランドハイアット東京』へ。その後、メートル・ドテルとして、2004年には銀座『オストラル』、2005年には青山『ピエール・ガニェール・ア・東京』で活躍。恵比寿の『ジョエル・ロブション』に転職した2010年にはメートル・ド・セルヴィス杯で優勝を飾り、2012年には、クープ・ジョルジュ・バティスト主催のサービス世界コンクール世界大会で優勝し、観光庁長官賞も受賞。2013年、NHK総合テレビ「プロフェッショナル仕事の流儀」出演。2017年に独立し、『Fantagista21』を設立。メートル・ド・セルヴィスの会の役員も務める。
access_time 2018.03.23

お客様がいかに楽しめるかのカギは、メートル・ドテルが握っている。

「料理の味つけに人間味を加えられるのがいい料理人。それと同じく、サービスで与えられる感覚に人間感を加えられるのがいいサービスマンだと思っています。サービスマンは、料理人とお客様とをつなぐ、かけ橋的な存在。心を込めなければ、料理人の意図や想いをお客様に伝えることはできません。うわべだけのセールストークでかっこつけるのではなく、その人の人間らしさを表現するのが一番のサービスなのではないでしょうか」
そう語るのは、2012年サービス世界コンクールの世界大会「クープ・ジョルジュ・バティスト」で日本人初の優勝者となった、メートル・ドテルの宮崎辰さん。メートル・ドテルとは、フランス語でレストランになどにおける、サービスチームの最高責任者を指す。シェフ同様、高度な技能が必要な専門職で、いわばレストランの総合演出家。テーブルセッティングやしつらえはもちろん、お出迎えや注文の承り、料理の提供や説明、目の前で行う仕上げや切り分け、お見送りやアフターフォローなど、お客様に関わるすべてのことを取り仕切る。
2012年サービスコンクールの世界大会「クープ・ジョルジュ・バティスト」で日本人初の優勝者となった
「お客様がいかにレストランという場を楽しめるかのカギは、メートル・ドテルが握っています。だからこそ知識や技術だけでなく、的確な判断力や高いコミュニケーション能力が求められる。お客様が望まれることの2歩、3歩先を読む洞察力が重要です。一皿一皿の物語を伝えるにあたり、料理を学び、その成り立ちを把握していることも、大きな武器になっています」
宮崎さんは、2017年にジョエル・ロブション・グループを退社し、『Fantagista21』を設立。全国各地の講演会やセミナーに出向いたり、企業や学校で研修や講義を行ったり、サービスマン向けの講座やサービスコンクールに向けた講習会を開いたりと、レストランにおけるサービス力の啓発やサービスマンの教育に向けて尽力している。さらには依頼のあったレストランに入り、自身が現場で働くことでスタッフのスキルやメンタルの向上をサポートしている。
「単にコンサルタントではなく、実際のメートル・ドテルとして働くことで、お店全体を肌で感じることができます。朝の掃除から始まり、細かな作業も積極的にこなしていく中に、そのお店での最高のサービスが見えてきます」
「一つのお店でしか働いていないスタッフは、そこのやり方が当たり前だと思っていますが、実はそうではないこともたくさんある。それを上司ではなく外部の人間が伝えることで、これがフランス料理のサービスのスタンダードなのだと学んでもらっています。現役メートル・ドテルとして、これまで培った経験をフィードバックし、そのお店の魅力を高めるお手伝いができるのは大きなやりがいですね」

料理人として生きていく覚悟を決め、がむしゃらに頑張った学生時代。

小学校の家庭科の授業でつくる喜びに目覚め、将来はコックになろうと思っていた。なかでもイタリアンに心を奪われ、外国語大学でイタリア語を専攻しイタリアへ行こうと、高校3年生から予備校に通い始めた。しかし知人のイタリア料理店のシェフからの助言で、考えを改める。
「イタリア料理のシェフになりたいと話したら、『西洋料理をやるなら、フランス料理から学んだほうがいい』と言われたんですよね。それに大学へ行ってからだと、4年間の後れを取ることになる。だったら最初からフランス料理を学ぼうと、エコールからフランス校へ行くことに決めました。そのために、NHKのラジオ講座でフランス語を猛勉強。料理人として生きていく覚悟を決め、がむしゃらに頑張りました」
エコール・キュリネール国立(現・エコール 辻󠄀 東京)では、フランス料理の基本を徹底的に叩き込まれた。基礎ができて、初めて応用ができる。家でもとにかく練習し、体に染み込ませた。念願のフランス校では、語学の勉強の甲斐あって言葉も通じ、楽しい生活が送れた。
「みんなで初めて食べ歩きに行ったのは、当時二つ星だった『アラン・シャペル』でした。そのときのサービスマンの立ち居ふるまいが素敵で、シェフの高いコック帽とは別の、タキシードのかっこよさに衝撃を受けたことが今も印象に残っています」
半年後に行った研修先は、南仏の港町、サン・トロペのレストラン。日本人は一人もおらず、フランス語で能動的にコミュニケーションをとるしかない。頼れるのは自分しかない中で、孤独を越えていく精神力を培ったという。
フランス校時代
「寂しくてベッドで泣いたこともありましたが(苦笑)、自分はこれで生きていくしかないと思っていたので耐えられました。すると次第にお店のスタッフとも仲良くなれ、当初は早く帰りたいと思っていたのに、帰る間際には『もっと居たい』と思えるほど楽しくなって。フランスの文化を肌で感じ、強くなれました。あの経験を若い頃にできたのは大きかったですね」

「これからサービスの時代がくる」…憧れの人の一言で心が決まった。

将来は一流のグランシェフになるという夢があった。そのために就職先は規模を中心に探して、東京・国分寺のレストラン『シェ・ジョルジュ・マルソー』へ。新入社員は3人ともキッチン希望だったが、「お客様の気持ちがわからければ料理はつくれない」という会社の方針により、全員がサービスからスタートした。とにかくがむしゃらに働く毎日。しかし数ヶ月が経ち、2人はキッチンに入れることになった。
「じゃんけんで決めようか、という話にもなったんですが(笑)、サービスをやり始めて数ヶ月しか経っておらず、まだ何も得ていない。今キッチンに入ったら、二度とサービスに戻れないと思って辞退したんですよ。ちょうどサービスに興味がわいてきた頃でもあったので…」
サービスの道も視野に入れ始めたのは、メートル・ドテルの矢野智之さんがいたからだった。完璧なまでの立ち居振る舞いでお客様を魅了する。憧れの存在だった。
「ある日、矢野さんから『これからはサービスの時代がくるから、僕と一緒に日本一のレストランをつくろう』って言われたんですよ。そこでもう心は決まりました。この人と出会わなければ、サービスの世界に入ることはなかったでしょう」
目の前のお客様に満足してもらえる喜びを日増しに感じるようになり、約2年が経過。次のステップを望んでいた頃、東京・芝の二つ星レストラン『クレッセント』へと転職した矢野さんから連絡があった。
「サービスマンが不足しているから来ないかと声をかけてくださったんですよ。今よりもっと人が多く、ライバルもいる。チャンスだと思いました。ツテもなかった自分に、矢野さんがまた道をつくってくれたんです」
サービスの道で生きていく。思いは固まっていたが、そこには大きな関門があった。
「もともと料理人をめざし、大学受験を辞めてまでフランス校へ行ったでしょう。父親にも料理人になるなら金を出すと言われていたので、サービスをやると伝えたとき、『ウェイターをさせるためにフランスまで行かせたわけじゃない』と大激怒されて…。必ずこの業界でトップになるから、料理人ではなくサービスをやらせてくださいと頭を下げました」

父親に恩返しをするため、生活のすべてをコンクールに捧げた。

コンクールのことを知ったのは最初の職場だった。先輩のソムリエが「矢野さんは日本一のメートル・ドテルだから」と話している。なんのことかわからずあとで調べ、彼がメートル・ド・セルヴィス杯で最年少優勝を果たしていたことを知った。
「本人からは一言も聞いたことがなかったんですけどね。そこから意識し始め、コンクールで一番になれば、父親に恩返しができるのではないかと考えるようになりました」
23歳で日本ソムリエ協会の認定ソムリエになると、父親の態度は少し緩和された。その後は、六本木『グランドハイアット東京』の開業に携わり、チームリーダーとして海外のVIPを接待。メートル・ドテルとして、銀座『オストラル』、青山『ピエール・ガニェール東京』で経験を重ねた。宮崎さんのサービスを目当てに来店されるお客様も多く、父もその活躍ぶりを徐々に認めてはくれてきたが、結果を出さなければ示しがつかない。メートル・ド・セルヴィス杯での優勝をめざして準備を始め、29歳で初出場し2位となった。しかし次こそはと臨んだ2度目の挑戦では、3位に終わる。その悔しさをバネに、必死に努力を続けた。
「3度目の挑戦は、恵比寿の三つ星『ジョエル・ロブション』に入った2010年。練習に練習を重ね、33歳で日本一になれました。だけど、パティシエの世界一に輝いた辻󠄀口博啓さんもおっしゃっていた通り、日本で優勝しても何も変わらなかったんですよ。やはり世界を取るしかない。そこからは世界一になることが目標になり、生活のほぼすべてをコンクールに捧げました」
日本大会は日本語と外国語の両方だが、世界大会は母国語以外を選択する。よりニュアンスが伝わりやすいフランス語を選び、さらに丁寧でフォーマルな言葉選びができるよう語学力も磨いた。日本と世界とではプレゼンテーションの仕方が違う。テクニックはもちろん、人を惹きつける色気や表現力を大事にした。
「謙虚な気持ちというより、前へ前へという感覚で挑戦しました。きちんと目を見て話すのはもちろん、お勧めする際にも、曖昧な表現ではなく『これが絶対にいいですよ』ぐらいに自信をもって提案しました。努力は裏切らないというのは本当です。おかげで最高の結果が出せました」

食卓を囲む方々に最高のひとときを提供できる、素晴らしい仕事。

世界一になると、広く教えを請われるようになった。日本のサービスマンのレベルを高め、その地位を向上させたい。独立の背景には、そんな思いもあった。
「日本人のサービスマンは細やかなんですが、ダイナミックさとかっこよさが足りない。それは何も顔やスタイルの問題ではなく、立っているだけで安心感があるような、『私に任せておけばすべて大丈夫』といった雰囲気です。技術はある。次の世界チャンピオンが出るのも時間の問題だと思います」
2018年1月からは、新たにサービス上級コースを開校。プロのサービスマンに欠かせない職務のデモンストレーションを行いながら、受講生一人ひとりに実習してもらい、レストランの現場で応用できるテクニックと知識を教えるという。
「サービスの上達に必要なのは、才能ではなくトレーニングです。このお客様を知りたいとか、何を考えているんだろうとか、疑問をもち、想像するプロセスを習慣づけることが大切。サービスは、食卓を囲む方々に最高のひとときを提供できる、素晴らしい仕事だと思います。食べることは一生続くもの。会社に就職するというより、“食業”に就くといった形で一生携われるのが我々の仕事です。食には人が集まります。食にまつわる仕事をすることは、人生を豊かにすることにもなると断言できますよ」
取材・撮影ご協力いただいた、レストラン『レフェルヴェソンス』 のオーナーで辻󠄀調卒業生でもある 石田 聡氏と

宮崎 辰さんの卒業校

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辻󠄀調グループ フランス校

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