No.120
「手に職を」という祖父の何気ない一言で入った日本料理の世界。軽井沢で始まったばかりの挑戦を前に「料理人は楽しい」と断言できる。
穏坐 料理長
髙橋憲治さん
profile.
東京都県出身。東京・京華商業高等学校からエコール 辻󠄀 東京 辻󠄀日本料理マスターカレッジに進学。1年間の課程を終え、大阪の辻󠄀調理技術研究所でさらに1年間、日本料理の学びを深める。1999年に卒業後、京都の日本料理店『桜田』に就職。約9年間修業を重ね、2008年6月、東京・東北沢に日本料理店『御料理 与志福』を開業。翌年から9年間、ミシュランガイドで一つ星を獲得し続ける。2018年、東銀座へ移転。2020年4月より、長野・軽井沢の『オーベルジュ・ド・プリマヴェーラ』が併設オープンさせた日本料理店『穏坐(おんざ)』の料理長を務める。
access_time 2020.09.04
勉強ができ必ずプラスになると背中を押され、新天地での挑戦を決意。
長野県・軽井沢町の『オーベルジュ・ド・プリマヴェーラ』は、宿泊施設を備えたフランス料理店だ。オーナーシェフを務めるのは、小沼康行さん。2020年4月には併設する形で、日本料理店『穏坐(おんざ)』をオープンさせた。
「昔からのお客様がご高齢になり、フランス料理だけでは重くなってこられたのを感じていたんです。そこで閑散期の11月にスタッフらと京都の料亭へ行って勉強し、私なりの日本料理を振る舞う企画を2018年の夏から2年連続で行ったんですが、それがご好評で。宿泊を伴う『プリマヴェーラ』には料理人の休みをとりづらいという課題もあったため、定休日をずらす形で日本料理店を併設することにし、任せられる人を探し始めました」(小沼さん)
『オーベルジュ・ド・プリマヴェーラ』オーナーシェフの小沼康行さん(左)、『穏坐(おんざ)』料理長の髙橋憲治さん(右)
そこで出会ったのが、髙橋憲治さんだった。京都の名店『桜田』で修業を重ね、東京・東北沢で『御料理 与志福』を開業。東銀座へ移転した翌年のことだった。
「与志福の今後の展開について先輩の料理人に相談をしていた中、プリマヴェーラで日本料理併設の企画があるので、小沼シェフの話を聞いてみないかと言われたんですよ。ぜひとお願いしたら、翌日にシェフが東京まで来てくださって」(髙橋さん)
『穏坐(おんざ)』料理長の髙橋憲治さん(右)
「出汁の味だけは見てやろうと思ってね(笑)。実際にお店に伺って、料理の腕前はもう間違いなかったんですが、あの名店『桜田』さんで9年もの修業を積んだことでも料理人としての気質や人間性が信用できるなと。努力を重ねた経験は裏切りませんからね」(小沼さん)
「後日、軽井沢を訪れたんですが、料理も素晴らしく、尊敬できる方だなと。『桜田』の親方にも相談したところ、小沼シェフは素晴らしい方だし、新たな勉強ができて必ずプラスになるだろうと言っていただけたんです。11年やってきた自店を閉めるのは苦渋の決断でしたが、チャレンジしなければ可能性は広がらないと考えました」(髙橋さん)
強い意志はなかったが、いざ学び始めると楽しくて仕方がなかった。
東京・下北沢で生まれ育った髙橋さん。小学校から高校までは、野球漬けの毎日だった。体育教諭をめざして体育大学を受験したものの、結果は不合格。浪人するか迷っていた頃にあった、祖父の誕生日会が転機となった。
「祖父は昔、趣味で料理屋をやっていたぐらい食べることが好きだったものの、孫たちは誰も料理の道に進んでいなくて。残るは僕と妹だけだったんですが、その日『これからは手に職をもったほうがいい。料理やってくれればうれしい』と言われたんですよ。祖母にも期待され、単純に『それもいいな』と思ったんです」
料理は未経験。正直、強い意志があったわけではなかったと振り返る。進むなら、スマートなイメージのフランス料理がいい。そう考え、辻󠄀調グループに確認したものの、すでに募集は締め切られていた。
「日本料理だったらまだ募集していると言われ、それもいいかなと。とりあえずやってみないと始まらないから、まずは経験しようと考えました」
こうしてエコール 辻󠄀 東京の辻󠄀日本料理マスターカレッジに進学。いざ学び始めると、毎日が楽しくて仕方がなかった。
「授業は面白くて、つくって食べられる喜びもあり、どんどんのめり込んでいきました。夏にハモの骨切りをやったんですが、先生のお手本を見ていただけで、いきなりできたんですよね。普通は無理だとすごく褒めてもらえ、さらに楽しくなって。もっと上達したいと、大根のかつらむきなんかも毎日練習していましたよ」
料理の味と美しさ、品や清潔感に惹かれ、京都の名店『桜田』を志望。
一方で就職先は決めかねていた。大阪の辻󠄀調理技術研究所に行けば、もう1年間さらに深く学べる課程がある。その間に食べ歩きを経験し、じっくり探そうと考えた。
「実習が多く、よりいっそう楽しかったです。実店舗さながらのシミュレーションでは、『これは素晴らしい』『自分だったらこうしよう』といった客観的な視点をもてたことも、いい勉強になりました」
大阪・法善寺にある『浪速割烹 喜川』でのアルバイトも経験。皿洗いに加え、接客も経験できた。
「料理人のかっこよさを実感し、今につながる先輩もできました。その方からは、『修業をするなら忙しい店のほうがいい』というアドバイスも。大阪や京都の日本料理店を数多く食べ歩いた結果、料理の味と美しさ、品や清潔感などに惹かれた『桜田』を志望しました。ゆくゆくは東京に戻って開業したいという夢もあったので、その際に修業の経験が活かせるお店を選びたかったんです」
やると決めたからには絶対にやり通そうという意志は揺らがなかった。
最初は人手が足りているからと断られたが、何度もアタックするうちに熱意が通じた。しかしいざ働き始めると、毎日掃除ばかり。
「美しい仕事をするのにも忍耐力を鍛えるのにも不可欠な部分なんですが、当時は『こんなはずじゃなかった』と思いましたよ。だけどスタートが祖父母の勧めだったので、諦めたくないとは思っていて。やると決めたからには絶対にやり通そうという意志は揺らぎませんでした」
決意を後押ししてくれる出来事があったのは、1年目の晩夏。
「床の間に飾るむくげの花を用意してくれって、親方から言われたんですよ。初めて頼まれ事を受けたのが、うれしくてうれしくて…。明日になったら咲くつぼみを見極め、花瓶に挿しておいたんですが、自分が用意したものをお客様が見るんだという感動も覚えました」
以降は自ら申し出て、その役を担うようになった。終業後、時季に合わせて飾る草花を選ぶ。そのやりがいで、1年間を乗り切れた。2年目からは、漬け物場、焼き場、造り場、煮方、八寸場と、それぞれの持ち場を経験していった。
「修業はもちろん厳しかったです。時代が時代だったので、朝も早いし夜も遅いし、人気店だから数も多い。だけど厳しいのは、どこの世界も同じです。これを乗り切らないと、今までやってきた経験すべて台無しになる。そう考えていたので、前しか見ていませんでした」
八寸(旬の幸を使った品の盛り合わせ)に定評のある『桜田』では、八寸場が最上位だった。9年目に入り、料理長的な立場を経験したところで、東京へ帰る決意をした。
「修業は『桜田』だけにしようと思ったんですよ。ほかの店も経験して、いろんな色を足せばプラスにはなるでしょうが、逆に『桜田』でのことを忘れてしまい、濁っていく危険性だってある。ずっと『桜田』の色をもち続けたいと考えました」
料理を通じて自分を見つめ直すことで、人間的にも成長できる。
28歳で実家に戻ると、親類から背中を押され、すぐ独立の準備をスタート。開業の地に選んだのは隣駅、東北沢だった。
「サービスは親に頼るしかなかったので、 歩いて行ける距離に開こうと。お金もなかったので借り入れをし、家賃の安い2階を選んで、2008年6月、『御料理 与志福』をオープンさせました。『与志福』という店名は、祖父母の名前を合わせたもの。祖父は結局、修業中に他界してしまったんですが、祖母には振る舞え、感激してもらえました」
ミシュランガイドで一つ星を9年連続獲得
開業後の早い段階で雑誌に紹介されたこともあり、一気に客足が伸びた。翌年にはミシュランガイドで一つ星を獲得。異例の若さや早さでの快挙だったうえ、その後も星を守り続けた。
先付け 長芋羹 北海道の雲丹 ブロッコリーのエスプーマ ミルクの泡
「『桜田』の基礎や経験はありますが、そのままやるわけじゃありませんからね。自分で考えてつくっていると、やはり自分の料理になってくる。考え、伝え、感じとってもらうことが、料理には大切です。仕事をしていると、自分を見つめ直し、誠実にもなれる。人間的な部分がとても大事ですし、成長もさせてくれます。『桜田』の親方には、『自分の大事な人につくるつもりでつくりなさい』と言われていましたが、そういう気持ちを忘れなければ、お客様にも思いが伝わるんですよ」
新生姜のご飯
東京でのお客様が、軽井沢までわざわざ来てくださるのがうれしい。
3年目からは毎年、母校に特別授業へ。教諭をめざしてたこともあり、依頼を受けてうれしかったと目を細める。
「覚悟が必要な厳しい世界であることは素直に伝えましたが、同時に日本料理の楽しさも感じてもらえるよう心がけました。それを機に、学生たちがアルバイトへ来るようにもなり、就職も受け入れました」
小諸布引いちごの茶菓
一方で、自然を尊重し、人々を繋げ、健康を志向し、地域ごとに多様に発展してきた和食という文化の素晴らしさを、学校給食を通じて次世代に繋いでいく料理人たちの取り組み『和食給食応援団』にも賛同。出汁のひきかたから献立の提案、栄養士の指導や子どもたちへの食育なども行い、その大切さを伝える啓発にも努めた。そして2018年、10年の節目を迎え、東銀座に移転。
『和食給食応援団』の参加時
「『こんな住宅地でやるのもったいない』『グルメが集まるエリアでもやっていける』といったお客様の後押しもあり、決心しました。固定の常連様が多かったので、ステップアップするには新たな挑戦も必要だなと。ただ、家賃は3倍以上。スタッフを増やし、価格も上げたんですが、東北沢から離れすぎたこともあり、常連様の足が遠のいてしまい…。新規のお客様だけではカバーが難しく、悩んでいたときに出会ったのが小沼シェフでした」
『穏坐』のオープンが決まると、常連客だった方々からの予約が相次いだ。軽井沢に別荘をもつ人もいれば、東京から1時間と少しで来られる立地の良さもあり、休日に足を運んでくれる人もいる。コロナ禍により、しばらくはテイクアウトがメインとなったが、6月からは懐かしい再会が多くあった。
「わざわざ来てくださるのが、本当にありがたくてうれしいです。自由にやらせてもらえているので、『与志福』は『与志福』で続いている感覚もあります」
まずはやってみて「楽しい」と感じることで、見えてくる答えもある。
「私の料理は地味ですが、味に関しては確固たる自信がある。おかげさまで新しいお客様にも喜んでいただけています。別荘地でもある軽井沢には経験豊富なお客様が多いので、そういう面でも銀座での経験を積んでいて良かったです」
食材にも恵まれた環境で、小沼シェフらと学び合える挑戦は、日本料理の可能性も拡げてくれるだろうと、髙橋さんは考える。
オーベルジュのフロント 奥の扉の向こうが『穏座』
「同じ食材でも、日本料理とフランス料理とでは、管理の仕方や火入れの仕方などが違ってくる。日本料理に活かせることも多いので、フランス料理の華やかさや技法を取り入れ、より良い料理に高めていきたいですね」
それに対し、「彼の料理は、一つひとつの味の繊細さが素晴らしい」と、小沼シェフ。
「魚などの扱いも非常に丁寧で、僕らにとっても勉強になることばかりです。それでいて、旬の野菜のあしらい方など、ジャンルは違えど同じ方向性を感じる部分も多い。洋食も和食も、研ぎ澄ませていけば双方のいい部分が交わっていくので、相乗効果でお互いを進化させていきたいですね」(小沼さん)
食べることは今後も絶対になくならないし、大きな楽しみであることにも変わりはない。そんな楽しい場に携われる喜びも料理人にはあると、髙橋さんは語る。
「こんな時代だからこそ、手に職をもつことがより重要になってくる。『料理人になりたい!』と強く思って進んだわけじゃない僕でも、学び始めてその良さに気づきました。最初から『こうでなくては』と決めつけなくても、何かをやってみる入口として、“食”はすごく良いと思うんです。大変なこともありますが、やっていて心から楽しい。『楽しい』と感じることで、見えてくる答えもあると思いますよ」
エコール 辻󠄀 東京
辻󠄀日本料理マスターカレッジ
(現:辻󠄀調理師専門学校 東京)
日本料理の奥深さに触れながら、
1年間で徹底的に本物の技術を学びとる。
1年間、日本料理だけを徹底的に。本物と一流にこだわった環境で、
日本料理の奥深さやおもてなしの心を会得する。
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