No.122
フランス料理を学び、就職するも挫折を経験。再起を果たした先で経営の大切さに気づき、知識と経験を重ね、家業のたこ焼き店を拡大。
株式会社 名代秘伝の味 たこ一 代表取締役
上村克郎さん
profile.
大阪府出身。大阪府立泉北高等学校からエコール 辻󠄀 大阪に進学。辻󠄀調グループ フランス校を2003年に卒業後、東京の洋食店に就職。挫折を味わうが、宅配業者でのアルバイトで立ち直り、千葉のパン店、茨城のフランス料理店『コワン ドゥ フルノー』での経験を経て、リクルート社の営業職に。2008年11月に帰阪し、両親が営むたこ焼き店を継承。店舗数を増やし、2020年10月現在、フランチャイズも含めた9店舗を有する企業の代表を務める。
access_time 2020.10.10
無理だと決めつけていた料理の道に、進んだっていいんだと気づいた。
物心ついた頃から料理番組が好きだったと語る上村さん。大阪府堺市のごく一般的な家庭で生まれ育ったが、自営業の父親が年に一度はホテルのレストランへ食事に連れて行ってくれたという。
「初めて食べたウズラ肉の料理が衝撃的においしかったんですよね。いつしかフランス料理に憧れを抱くようになり、料理本の写真を眺めては夢をふくらませていました。だけど子どもがプロ野球選手になりたがるのと同じで、叶わない夢だと勝手に思い込んでいたんです」
高校に入ると、周りと同じように大学へ進学するのが決まったコースかのように思っていた。しかし2年次に見かけた進学情報誌で、調理の専門学校のページに目を奪われる。
ニュータコイチ 春木店
「無理だと決めつけていた料理の道に、進んだっていいんだと初めて気づいたんです。とはいえ周りは大学へ進学する友人ばかり。勉強したくてもできない世代だった親父からは、『どんなに苦労しても大学には行かせてやる』と期待され続けていて…。伝えづらかったんですが、3歳違いの兄から『やりたいことが見つからない大学生の友だちも多い。今やりたいことがあるのは幸せなことやし、絶対にやるべきや』と背中を押してもらえました」
ニュータコイチ 春木店 夜の居酒屋モード
各校の資料を取り寄せ、なかでも惹かれたのがフランス校を有する辻󠄀調グループのエコール 辻󠄀 大阪だった。
「戦前生まれでアメリカの文化に強く影響を受けていた親父から、『若いうちに外国へは行っておけ』と言われていて、海外に行きたい思いも昔からあったんですよ。最終的には料理人になりたいという熱意を認めてくれたんですが、フランス留学に賛成してくれたことも大きかったです」
恩師から受けた「ええ店って何や」という問いが、生涯のテーマに。
3年次の夏、ずっと打ち込んできた陸上部を引退してからは、地元の洋食店でアルバイトを始めた。
「アルバイトにも、こなせればいろいろやらせてくれるお店で楽しかったです。コックコートを着て、タマネギを切るだけでもうれしくて…。初めてフォアグラを味見したときは、こんなうまいもんが世の中にあるのかと感動しました」
専門学校へ入学してからは、一言も聞き漏らさないよう最前列の真ん中で授業を受けた。放課後は学校に紹介してもらった喫茶店で働き、土日は洋食店でのアルバイトを継続。
「フランス校へ行くまでに留学資金を十分に貯めようと必死で働きました。最前列に座っていたのは意欲もありますが、眠らないためが大きい(苦笑)。もともと理屈っぽい性格なので、おいしくなる理由を説明してくれた授業は、面白かったです。求められるものの基準が厳しく、どこでも通用するような最大公約数を教えてもらえたのも良かったと思います」
エコール 辻󠄀 大阪時代のノートは、今も大切にしている
知識や理論、技術と並行して、料理人や社会人として大切なものも学べた。とりわけ担任だった榊正明先生からは、その後の人生に大きく影響する教えを受けたと振り返る。
「学校とは違い、現場に行ったら給料をもらいながら教えてもらうことになる。当然ながら緊張感と謙虚さをもって臨まないといけません。榊先生はそういう部分にも厳しく、つい言葉使いが悪くなると、楽しい雰囲気のときでもすぐに指摘してくれました」
「実習の試食で感想を訊かれ、『おいしいです』と答えても怒られるんです。どうおいしいのか、なぜおいしいのかが大事だと。食べ歩き先を探すのに、『ええ店を教えてください』と訊ねたときも、『ええ店って何や』と詰め寄られました。『ええ店』の定義は、誰のどんな視点かによっても変わりますからね。この問いは、自分にとって生涯のテーマにもなっています」
真面目に一生懸命やったら評価してもらえるのは、フランスも同じ。
1年間の課程を終えて留学したフランス校での生活は濃密で、現地の先生方の熱量が半端なく、準備に準備を重ねて実習に臨む。そのかいあって半年間での成長は飛躍的なものだった。
「授業ではまったく気が抜けない。人生で一番、頑張っていた時期かもしれません。週末は食べ歩きに出かけましたが、必死に貯めたお金で学びに行くんだから、『おいしかった』で終わらせるわけにはいかない。一生忘れない経験にしなければと、写真を撮って分析し尽くしました」
フランス校時代 仲間たちと
その後の実地研修では、ブルゴーニュ地方の三つ星レストラン『ラムロワーズ』へ。
「和気あいあいとしながらも、スタッフたちは皆仕事が早く、オンとオフの切り替えが明確。見習うべきだと感じました。ある日、朝早くからオマール海老を茹でていたら、たまたまラムロワーズシェフが来て、『こんな時間から何をやっているんだ。押しつけられているのか』と質問攻めに(笑)。『初めて任されたのがうれしかったから、責任をもってやりたいだけだ』と伝えたところ、名前を訊いてくれたんです」
「それまでの3カ月間はジャポネ(日本人)でくくられていたのに、そこから休みの日にはドライブへ連れて行ってもらえるまでになり感激しました。できない人間はすぐクビになる厳しい職場でしたが、真面目に一生懸命やったら評価してもらえるのは、フランスも同じなんだなと」
社会に出た途端、全くついていけず、ドロップアウトしてしまった。
フランスではいくつものレストランに圧倒され、世界の広さを実感した。しかし同時に、日本にある大衆的な飲食店のクオリティの高さも思い知った。
「フランスとは違い、日本には安くておいしいものが豊富にある。向こうで過ごし、日本の洋食って面白いなと感じたので、帰国後は食べ歩きで最もおいしいと感じた洋食店に就職を決めました」
当時、東京・京橋にあった店舗での仕事は楽しかった。しかし約1カ月後、オープン準備を進めていた汐留の店舗へ移ると、歯車が狂ってしまった。
「まだまだ自分なんて通用しないことや、怖い先輩がいて怒られることなど、全部想定して入ったつもりだったし、すぐに辞めるようなことだけは、しないでおこうと決めていたのに…。自分でも信じられないぐらいうまくいかず、気持ちばかり空回りして、最後のほうは何をやっても失敗ばかり。学生時代は愛情に満たされていたことにも初めて気づきました」
就職からわずか2カ月で退職。しばらくは何もできずに過ごしたが、貯金が底をつき、宅配業者のアルバイトへ。
「荷物をラインに流す単純作業でしたが、もともと頑張るタイプなので、社員さんに褒められたんですよね。社会人になって初めて認められたことが物凄く励みになりました。扱う荷物の中にパンがあって、とてもいい香りがしてたんです。とても魅力的に感じ、やっぱり自分は食の仕事に関わりたいんだと再認識して、そのパン屋さんを尋ねました」
こうして千葉県のベーカリーに転職。ほぼすべてが手づくりの人気店だったが、その仕事ぶりが早々に認められ、やりがいがあった。その後上司の退職が相次ぎ、1年ほどで製造の責任者に。限られた人数で回せるよう、業務を見直す過程に携われたのも貴重な経験だった。
味にプラスされる成功要因に興味を持ち、ビジネス書を読み漁るように。
仕事が落ち着き始めた頃、研修先の『ラムロワーズ』で部門シェフを務めていた名越和幸シェフから、茨城県で独立するから一緒にやらないかと声がかかり、『コワン ドゥ フルノー』のオープニングスタッフとして参加することになる。
「名越シェフは、フランスや日本の名だたるレストランで副料理長にもなっていた凄腕の料理人。料理は本当に素晴らしかったんです。ただ、開業したのは、知らなければ行けないような街外れ。オープンのチラシもまかずにいたら、最初は来客数が少なくて…。今でこそ大人気店ですが、当時はそれがもどかしく、かといって進言できるほどの知識もない。料理の腕以外にも、お店を経営していく上で重要な何かを学ばなくては…という気持ちになりビジネス書を読み漁るようになったんです」
当時から大切にしているビジネス書
いざ読み始めると、初めて知ることばかりで新鮮だった。夢中で知識を吸収し、新たなステップを模索したい旨を名越シェフにも伝えようと考えいたそんな頃、リクルート社に勤め始めた兄から意外な誘いを受ける。
「現状を話したところ、自分と同じ3年限定の契約社員をやってみないかと。ホットペッパーグルメ(飲食店のクーポンマガジン)の営業なら、店側の気持ちもわかっていいんじゃないかと言われたんです。名越シェフのことは今も大好きですし、シェフの背中を見られるということは、かけがえのない経験になるのは、充分に理解していたのですが、食ビジネスを別の角度で見つめてみたい気持ちも強くなり、転職を決めました」
自分たちで考えた戦略やメニューが集客につながる達成感を覚えた。
3年間でビジネスの基本を身につけ、やりたい夢を実現させようというCV(キャリアビュー)職。せっかく新たなチャレンジをするならと馴染みのないエリアを志望し、岐阜編集部の配属となった。
「運良く出だしは好調で…。これまで蓄えた知識を実践できる機会も得られ、めちゃくちゃ楽しかったです。うまくいかないときはみんなで話し合うんですが、そのチームワークも面白くて。集客に向けた戦略やメニューなども自分たちで考え、それで顧客の売上げがあがると、今までにない達成感を覚えました」
ホットペッパーグルメの営業マン時代
しかし1年半ほど経った頃、母親のがんが再発。上村さんが高校3年次に両親で始めたたこ焼き店『たこ一』を閉めるかどうか、話し合いの場がもたれた。
「『あんたがやってくれたら一番ええんやけどな』と言われたんですが、さすがにしばらくは悩みました」
父親が骨折による失業を機に始めたのがたこ焼き店だった。当初はトラックを店舗代わりに夕方から明け方まで働き、厳しい経営が続いたが、やがて軌道に乗り、店舗を構えるようになった。
創業の軽トラック
「老夫婦2人が一坪半の敷地で営み、月間100万以上も売り上げていたんですよね。何気にどこのたこ焼きよりおいしいなとは思っていたんですが、ポテンシャルの高い商品だとわかって。しかも、レシピもしっかり整っていて、展開がしやすい。人生を賭けるに値する商売なのではと、受け継ぐことを決意しました」
創業期、初めての固定店舗
この店に来たら自分は大事にされると思ってもらうことが経営理念に。
こうして2008年11月、堺市へと戻り、店舗でノウハウを学ぶところから始めた。まず目標に置いた年商は1億円。
「目標の設定に親父はすごく喜んでくれたんですが、いざ始めると最初はうまくいかなくて…。いきなり数字がどうこう言われるわけですからね。ひどい喧嘩になったこともありました。だけど年明けには、すべてを任せると言ってくれて。そもそも0から1にしたトラックでの1年間があったからこそ今があるわけですから、改めて頭が下がりました」
人員を増やし、営業時間を延ばして徐々に売上げをあげ、2年半ほど経った頃、隣接する和泉市に2店舗目を出店。しかしスタートは厳しいものだった。
「そもそも親父と話すのを楽しみ来るお客様も多かったですからね。大阪人にとってのたこ焼きは、ただのファストフードじゃない。お客様との関係性も重要なんだと痛感しました。この店に来たら自分は大事にされる。お客様にそう思ってもらうことが大切だと考え、それが今の経営理念になっています」
細やかな接客も評判を呼び、売上げを伸ばすと、2012年、岸和田市の春木に3店舗目を出店。そこで専門学校時代の恩師、榊先生と再会を果たす。「歩いていたらいきなり『先生!』って声がして」と榊先生。
榊正明先生(左)
「家がすぐ近所なんですよ。それから買いに行くようになったんですが、彼の店は接客が徹底していて。アルバイトのスタッフさんも、わざわざカウンターから出てきて商品を渡してくれるんです。そんなたこ焼き屋さんてないじゃないですか。あれには感心しました」(榊先生)
それに対し、「洋服屋さんはそれをやるでしょ」と上村さん。
「効率化も重要ですが、お客様は自分が効率的に回されていると感じたら嫌じゃないですか。自分たちがやれることでお客様が喜ばれるなら、やるべきだと。極論で言えば、たこ焼きではなく人の心を扱う仕事だと思うんです。お客様はお金を払って、感情を買われているんじゃないかって」(上村さん)
当たり前とされるレール以外の存在に気づけて、僕はハッピーだった。
春木店は、テイクアウトだけでなく、ほかのメニューも加えた居酒屋形式にしたところ、一躍人気店に。継承から約8年で年商1億円を達成する。20席の店舗が手狭になると、常連のお客様から駅前の空き店舗を紹介され、2017年に移転。客足が一気に4倍も伸び、140席にまで増設した。
「居酒屋のメニューは、できる限りお客様のご要望を聞き入れ、価格さえも意見を仰ぎました。商売である以上、誰にとっておいしく“ええ店”かが重要ですからね。お客様には接客を褒められることが多く、『みんな楽しそうに仕事してんなぁ』と言ってもらっています」
「お客様のことを反射的に考え、無意識に大事にできる人は、どこの企業にいっても重宝されるはず。ここを出て行ったあとも、『たこ一で働いていた子はお客様をホンマに大事にするな』って言われたいんですよ」
名代秘伝の味 じゅげむ高円寺店
同じく居酒屋スタイルの東岸和田店、テイクアウトの初芝店や河内長野店、駅前ショッピングモールに入ったラパーク岸和田店と順調に店舗を増やし、それぞれの店舗を丁寧にマネジメントしていくなか、東京へも進出。中野に次いで高円寺にも出店した。
ニュータコイチ 東岸和田店
週に2回、各店長らとのミーティングを欠かさないようにしたところ、グループとしての団結力も向上。さまざまな方面から出店について声がかかるようになった今も、スタッフがどう感じて、どう成長していくか。それを支え、見守ることが現在の大きなやりがいだという。
「自分たちの考えや力が成果につながる喜びを味わってほしい。仕事を楽しみ、熱狂できれば、ともに成長していけますからね。料理に必要な要素はもちろん、『なぜか』『何か』と考えるクセを植えつけてくれた母校に感謝しています。…偏差値の高さは、選択肢の幅広さにつながるはずなのに、それに囚われて自分のなりたいものにフタするのはもったいない。当たり前とされるレール以外の存在に気づけて、僕はハッピーだったし、大人を説得できるぐらいの熱量があれば、道は開けると思いますよ」
辻󠄀調グループ フランス校
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