INTERVIEW
No.124

家業の日本料理店を継ぐため大学卒業後、調理の専門学校へ。先生への憧れから教職に転向し、日本初の「高校生レストラン」を実現。

三重県立相可高等学校 食物調理科 専門調理師・教諭

村林新吾さん

profile.
三重県出身。三重県立松阪商業高等学校から大阪経済法科大学 経済学部を経て、大阪の辻調理師専門学校に進学。1984年に卒業後、教員として辻調グループに入職。1994年、三重県立相可高等学校の食物調理科の創設時に赴任。2002年10月、地元多気町などの協力を得て、同校調理クラブの生徒が運営する『まごの店』をスタート。2007年に「文部科学大臣優秀教員表彰」、2008年に「調理師法施行50周年記念全国大会会長表彰」を受賞。著書に「高校生レストラン、本日も満席」、「高校生レストラン、行列の理由。」(ともに伊勢新聞社)。
access_time 2020.12.15

高校生にだってお客様は必ずつくから、絶対に大丈夫と思って始めた。

2011年放送のテレビドラマ『高校生レストラン』のモデルにもなった『まごの店』。三重県多気町にある、日本で最初の、高校生が運営するレストランだ。食物調理科を有する県立相可高等学校の調理クラブに所属する生徒たちが、調理や接客、経理も含めすべてを担っている。
『まごの店』外観
国内外の料理コンクールで数多くの賞を獲得している同学科。立ち上げから全てを担ってきた教諭が、村林新吾さんだ。
「真面目にきちっとやれば、高校生にだってお客様は必ずつく。絶対に大丈夫と思って『まごの店』は始めました。見た目は初々しいけど、食べたらプロ顔負けの味やからね。卒業時に調理師免許が取れる学科として始まったけど、実務を経験した彼らは即戦力になる。生徒たちと一緒におると、現在進行形で毎日が面白いよ」
『まごの店』内観
1960年、三重県松阪市に生まれた村林さん。実家は両親が営む日本料理店の2階。父親がまな板に向かっている横で、幼い頃から皿洗いや切り物を手伝い、料理はとても身近なものだった。小学生で始めた剣道で身につけたのは、正攻法で挑む姿勢。結果、あと一歩で優勝を逃し続けて限界を知るも、そのなかで精いっぱい努力し、最高の仕事をすることが自分の道だと悟った。
「後継ぎになるのが決まったのは、中学2年の夕食時。『新吾、料理は好きか』『好きや』『そんなら、この店継げ』という親父との会話で終わり。あまりにも日常的で拍子抜けしたけど衝撃的な思い出で、後継ぎってこんなふうに移行していくんかなぁって、今でも胸に詰まるものがありますよ」

大学時代、不幸に見舞われ葛藤しつつも、調理の専門校で学ぶことに。

将来を見据え、商業高校へ進学。自身が一番強かった剣道部では、教えることで人の技術が上がる、指導の喜びを知る。「店を経営するなら行っておいたほうがいい」という担任教諭の勧めで、卒業後は大学の経済学部へ。せっかくならと食の街・大阪の学校を選び、数々の飲食店でアルバイトを経験し、現場を知った。
「一回入ったら決めた期間まで絶対辞めやんっていうのが僕の主義やもんで、つらくて辞めたことはないんですよ。自分は商売したいってのがあったから、続けようって腹括って」
しかし大学3年次の冬、父が脳溢血で急逝。深い悲しみのなか、大学を辞めて店を手伝う意志を母に伝えると、「店は大丈夫。大学をきちんと卒業して、そのあとも調理の専門学校に行きなさい」と言われ、しっかりと料理を覚えて母に恩返しをしなくてはという気持ちで、実家に帰りたい気持ちを抑え、大学卒業後の進路も探し始める。いくつもの学校を見たなかで、大阪の辻調理師専門学校に強く魅力を感じたという。
「先生ら見たら憧れてさ。テレビで観た人ばっかしやんか。模擬授業が違うんさ。素晴らしい技術、夢のある仕事の話に触れて、やっぱりここやなと。一流の先生に教えてもらえて、外部講師の先生が来たら、普通教えてもらえんようなことも言うてくれる。『後継ぎなんやから、早う仕事覚えられるところへ』って担任の先生からの後押しもあって決めたんさ」

最高の料理をシャワーのごとく教えてもらった1年間を経て、教職へ。

切り方、盛りつけ方、味付けの仕方、すべてが未知との遭遇。見たことのない食材も数多い。手に入る最高の食材を使い、知る限りの最高の技術を余すところなく教えるのが辻調だったと振り返る。
「先生たちの手さばきがすごいんよ。タマネギのみじん切りひとつ、まねしようとしても全然できん。白衣の着こなしもめっちゃかっこええし。ちゃんと勉強せな無理やなと、200人が入る教室でもずっと前から3列目に座り続け、ひとつの言葉や動きも漏らさず吸収しようと、集中して受けとった」
味見をすれば目を見張るおいしさ。食べることで心までが幸せになる。その感動が「自分も人を喜ばせられる料理をつくりたい」という衝動になり、向上心へとつながった。左利きをカバーしようと、放課後の補習にも欠かさず参加。
「大学までは全然やったけど、辻調では一番になったろういうぐらい、人一倍勉強したし、間違えた問題もいまだに覚えてる。最高の料理をシャワーのごとく教えてもらったあの1年間は、いい思い出しかないですよ」
卒業後はどこかの日本料理店に就職し、何年か修業してから実家を継ぐつもりだった。しかし日本料理の先生から、辻調グループの教員になる道を勧められる。
「最初は助手やけど、一流の先生につけるから料理を極められる。母親は料理の商売がどれだけ大変なことかもわかっていたもんで、もしそんな道があるなら受けたほうがいいんやないって強く勧めてくれて。剣道を通じて知った、指導することの楽しさやら、先生という職業への憧れやらもあって、辻調で働くことにしたんです」
辻調理師専門学校の助手時代

舌の肥えた先生たちから料理を褒められ、助手の業務も認められた。

学校に住み込み、当直勤務をする働き方。当時は早朝から深夜まで雑務に追われ、一日目で音を上げたという。
「知らんことばっかりで、一つひとつの仕事が重くて。疲れと緊張で、三日坊主どころか二日ももたんなと。だけど初日に、高校時代の先生からの励ましの電話をもろたおかげで、乗り越えられた。それからは仕事を覚えるのに必死やったけど、楽しかってなぁ」
数え切れないほどある仕事のなかで、最も難しくやりがいがあったのが、先生たちの食事をつくる「まかない」の業務。舌の肥えた先生たちの評価はシビアだったが、それだけに認められる喜びはひとしおだった。
「行事があると特別な料理をつくるんやけど、年末最後の日のお正月料理はとくに大変で徹夜さ。自分も3年目ぐらいで料理長させてもらって。同期や後輩と一緒に練習してつくった料理を、先生みんなおいしいって褒めてくれたのは今でも覚えてる。おかげで早い段階でまかないの責任者になれたんよ」
2年目からは授業を補佐する助手の仕事に就くも、初日から大勢の生徒の前で大恥をさらすという、苦い思い出もできた。
「緊張で固まってしもて、普段ならササッとおろせとった小鯛に触れもせんかった。手本になるには、作業がこなせるだけではあかん。どんなときでも完璧にでき、一つひとつの所作の意味、なぜそうするのかまで理解していないと、自信をもって見せられんなと。その日から、勤務後に猛特訓さ」
教壇に立つ先生が今何をしてほしいのか。助手には調理技術だけでなく、その場の状況をとっさに考えて行動できる、俊敏な判断力と気配りが求められる。
「タオル一つ渡すにしても、拭くときめくれんよう、折り目が進行方向を向くようにしたり、お皿を置くにも、どの位置に出すか考えたり。先生の動き方に合わせて準備するようになったら、気に入ってもらえて。『なんでそんなに気がつくんや』って言うてもらえたときはうれしかったし、それからいろんな仕事を任されるようになったんよ」

技術だけでなく心の教育もしたいと転職し、高校調理科の創設に尽力。

やがて6年の歳月が流れ、実習を指導する立場に。どう教えたらわかりやすいかを考え抜いて準備し、自身のスキルを一歩ずつ高めていった。辻調が監修・調理を行う『料理天国』の助手も担当。珍しくておいしい、最高の料理を出すテレビ番組の現場で、段取りの大事さと読みの深さ、そして本物とは何かを知った。
辻調理師専門学校の教員時代
そして10年が過ぎた1993年。教科の教壇にも立つように。校内だけでなく、全国各地の料理講習会にも講師として飛び回った。しかし胃を悪くしてしまい、長期の手術入院へ。死を意識したことで、退院後は一日一日を、よりいっそう大切にするようになった。
「そんな頃に、調理科を設立する三重の高校が先生を探してるって、母から電話があったんです。話を聞いて、技術だけでなく心の教育もしていきたいと感じ、一生かけてやっていく価値のある仕事だなと」
こうして1994年、相可高校に赴任し、食物調理科・調理師コース20人の実習を担当することに。材料や調理器具など環境の違いは大きくあったが、3年間かけて少人数と向き合える強みもあると考えた。
「若い子らが憧れてくれるように、身なりもきれいにしとかないと。慣れた料理でも緊張感は大事。1年の1学期なんて家庭料理と一緒やけど、気ぃ抜いたらあかん。あの子らにとっては初めての料理やから、卵焼きでもやっぱり違うよな、というのを見せつけとかんと。自分が学生のとき、素晴らしいと感動した料理はよう覚えとる」
瞬く間にコンクールの常勝校に
生徒からの要望で参加を始めたコンクールにも挑戦しやすいようにと、調理クラブを発足。初めての挑戦ばかりで困難も多かったが、「生徒のため」という信念が原動力になった。各種コンクールの全国大会で連戦連勝を成し遂げ、瞬く間にコンクールの常勝校となった。
校内に展示されている数々の料理コンクールのトロフィー

実務を経験することで相手を思い、心を込めた料理がつくれるように。

生徒を出張料理教室の助手として連れて行ったり、特産品を使った商品開発に協力させたりと、さまざまな経験を積ませ、成長につなげた。それらの活躍が町にも評価され、高校生レストラン開業のプロジェクトがスタート。2002年10月、複合レジャー施設「五桂池ふるさと村」内の屋台に始まり、2005年2月、現在の『まごの店』が誕生した。
まごの店の人気メニュー『花御膳』
地元でとれた自然素材を中心に、旬のおいしいものを厳選して使用。天然だしにこだわった優しい味付けの松花堂弁当「花御膳」を、土日に100食限定で提供し始めたところ、連日すぐさま満席に。最初は失敗の連続だったが、一つずつ対策をたてて改善していった。
「仕込みの大切さ、身だしなみ、言葉遣い、挨拶や返事、笑顔や元気の大切さも、働いてみて初めてわかること。実際に食べてもらうことで、相手を思い喜ばせるために、心を込めた料理がつくれるようになったからね」
いま自分が何をすべきか、自ら考え動けるようになったのも大きな成果だった。会計の計算もすべて生徒が担当。頼んだ仕事は生徒を信用して任せると、彼らの責任感も向上。一方、手を抜く態度が見えたときには徹底的に怒った。
「お客様には全部伝わるからね。自分の子どもやと思って育てとるんで、人に悪く言われると、そういう子に育てた自分が悪いて、心がキューッと痛くなるもん。そのかわり文句も言うよ。挨拶一つできなかったらやり直させるし、嘘をついたらどれだけ重いことをしたのか、とことんまで言います。逆に自分が間違えたら謝るし、最後はちゃんと生徒を守るんやけどね。生徒らは、まだ心がちっちゃい。どんだけ悪いことをしても、自分の子やったらかばうやん。それぐらいのつもりで向き合ってます」

自分は何が好きかを考えて、料理をしたいと思えば、迷わず進むべき。

年末にはおせち料理の販売もしている調理クラブ。日本料理の集大成と呼べる、学んだことを確認し、発揮するのに最適な題材だという。そのため12月末のおせちづくりを最後に、3年生の引退式を行っている。
年末に販売する『おせち料理』の試作
「毎年みんなもう、泣いて泣いてね。こんな感動の場面はほかにないさ。先生はいいよ~。やってて良かったと一生思える。僕と一緒にチームを組んで、(G7伊勢志摩)サミットの首脳配偶者に向けたランチをつくったり、皇族の方をもてなす料理をつくったり、普通の高校生が体験できない場面にも、子どもたちとおれるし」
吉川秀明 校長先生にも『おせち料理』の試作をプレゼン
「家族はもちろん、料理人である母親に先生としての仕事を褒めてもらえるのが一番うれしい。それもこれも、教えた生徒が良いんさなぁ。子どもたちがハッとわかったときには、料理をつくるのとはまた違う喜びがあるんさ」
2020年12月現在、新型コロナウイルスの影響により『まごの店』は休業中だが、地元スーパーなどでの弁当販売を続けている。そんな状況下、今後の食の世界に不安がないかと訊ねたところ、「何の心配も要らない」という力強い答えが返ってきた。
「自分は何が好きかを考えて、料理をしたいと思えば、迷わず進むべき。新規オープンするお店も増えてるし、良い料理をつくればお客さんはつくから全然関係ない。事実、相可高校への求人は120%以上です。料理の道に進むつもりで頑張れば、絶対に明るい未来は見えますので、心配しせんといてください。食に関わる仕事は、ものすごく面白いからね」
※村林先生のお話は、辻調時代の後輩が聞き手であったこともあり、かなりフランクにお話しいただきました。できるだけご自身の言葉のままで構成しましたので、方言が多用されております。(聞き手:【PROFESSIONs】編集事務局・辻調グループ 岡島卓巳:写真中央)

村林新吾さんの卒業校

辻調理師専門学校 launch

辻調理師専門学校

西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ

食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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