No.136
鍛えられる名店を志望し、一流レストラングループに18年以上勤務。現地でのシェフ経験を生かしてパリで開業し、さらなる展開へ。
L'Archeste(ラルケスト) オーナーシェフ
伊藤 良明さん
profile.
千葉県出身。千葉・東京学館浦安高等学校からエコール 辻󠄀 東京の辻󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジに進学。1996年に卒業後、フランス料理店『レストランひらまつ』を中心とする飲食店グループ、株式会社ひらまつに就職。東京・原宿や福岡・博多、東京・広尾の店舗で修業を積み、2002年4月からパリ店へ。1年半の研修を経て、北海道・札幌の新店舗立ち上げに参画。2004年10月、16区に移転したパリ店へ異動し、ほどなくシェフとなり、教育にも尽力。2014年7月末に退職し、独立準備を進め、2016年9月、パリに『ラルケスト』を開業。
access_time 2021.07.30
インタビュー場所 エコール 辻󠄀 東京
「おいしい」と喜ばれたうれしさから、憧れを出したフランス料理の道へ。
生まれは1976年、千葉県船橋市。美容室を営む母に育てられ、「子ども心に忙しいことがわかっていたので」と、料理をするようになった。
「土曜のお昼、妹もお腹を空かせていたから、冷蔵庫にある食材でつくるようになったんですが、野菜を炒めただけだったり肉を焼いただけだったり、今考えたらヤバイものばかりでしたよ(笑)。絶対おいしくなかっただろうに、妹も仕事終わりの母も、『おいしい』って喜んでくれて…。うれしくて、今でも覚えています」
料理をすれば喜んでもらえる。そんな気持ちで料理人を志す。なかでもテレビ番組『料理の鉄人』を見て憧れた、西洋料理をめざすことにした。
「家で食べるような和食は身近でしたが、本場のフランス料理なんて見たことも触れたこともないし、高いコック帽もかっこいい。学ぶなら“料理界の東大”と言われていた、辻󠄀調(グループ)一択だなと、迷わず決めました」
高校卒業後、エコール 辻󠄀 東京の辻󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジに進学。「ひどい学生だった」と振り返る。
「就職したらちゃんとやろうと決め、それまではアルバイトをしまくって遊び倒してやろうと(苦笑)。あと1日か2日休むと退学ぐらいのレベルでしたよ。ただ、学生生活は楽しかったです。初めて食べる料理にすげぇなと感動しましたし、何を食べてもおいしかった記憶があります」
絶対に挫折せず一流になろうと就職。厳しいながらも愛情をもって育てられた。
専門学校へ進学した一番の目的は就職だった。
「この学校に入れば、名だたるレストランに入るきっかけがつかめると思っていたんですよね。圧倒的にすごいところに行けば、素直に一生懸命、修業ができるはず。そう考え、就職担当の先生に『厳しくとも鍛えられる名店を紹介してください』とお願いしたんです。これまでさんざん母に迷惑をかけてきた分、就職したら絶対に挫折せず一流になろうと決めていました」
こうして進んだのが、東京を拠点とするレストラングループ、株式会社ひらまつだった。1996年4月、最初に配属されたのは原宿にあった婚礼レストラン。2つの会場と400席のカフェがある大型店で、多忙を極めた。
「1日600名分ぐらいの料理をつくっていて目の回る忙しさでしたが、これを超えないと先には進めないと捉え、とにかく必死でした。前日に仕込みをしない店だったので、朝から800本のアスパラを剥いたり、尾頭付きの魚を次々にさばいたりと、どんどん手が早くなっていきました」
L'Archeste 79 RUE DE LA TOUR 75116 PARIS
2年目になると、異例のスピードで焼き物の担当へ。次々に与えられる指示に応え続けた結果、チャンスをものにした。
「今じゃ考えられないぐらい厳しかったんですが、なんでも素直に聞いていたので、かわいがってもらえたんですよね。次にどう動くかと計算しないと間に合わないので、頭の回転も早くなりましたし、何よりめちゃくちゃ根性がつきました。よく怒られはしたものの、とても愛情をもって育ててもらえている実感があったので、ついていけたんだと思います」
L'Archeste
学生時代から夢だったフランスで修業したいと願い、開業間もないパリ店へ。
1999年には、新たにレストランやカフェ、ブティックをオープンする福岡・博多に異動。
L'Archeste
「カフェの担当からレストランに移り、ポワソン(魚料理)のシェフを任された頃に、初めて平松(博利)社長の料理に触れたんですよ。ソース一つとっても全然違う。経験のない自分が味を見ても、違いがわかるほどおいしくて感動しました。しばらくすると社長から『お前は仕事が雑だからパティシエをやれ』って言われて。そこからブティックでみっちり、お菓子を学ばせてもらうことに。おかげで細やかな仕事ができるようになったと感じます」
L'Archeste
その後は東京・広尾の本店へ。シェフパティシエを任された後、若くしてスーシェフ(副料理長)を務めることになる。
「デザートに関しては初めて一人で任されたので、仕込みも全く追いつかない。打ちのめされましたが、やるしかありません。どうすれば間に合ってどうすれば良い状態で出せるのか、時間を逆算しながら仕事をしていました。スーシェフになったときには、部下がみんな歳上だったので、指示する難しさを痛感。どうすれば人の気持ちがついてくるのかを考えるきっかけにもなりました」
L'Archeste
一方その頃には、学生時代に叶えられなかった渡仏の夢を抑え切れなくなっていた。会社を辞め、フランスで修業したい。そう訴えた。
「本当は、エコール卒業時にフランス校(辻󠄀調グループ)へ進学したかったんですが、学費の面で母に言えなかったから、いつかは行きたいと思っていました。半年間ほど退職を願い出ていたところ、2001年10月にオープンしたパリ店への辞令が出て。2002年4月、最初の研修生としてパリへ行くことになったんです」
天然帆立のラメル、キャビア、リベッシュ
若くしてパリでシェフになれる。そのチャンスを前に、今後の覚悟を決めた。
サン=ルイ島に構えられたパリ店は、オープンからわずか4ヵ月後に、日本人の店舗で初めてミシュランガイド一つ星を獲得。これまでとは違う環境で品質を保つことに苦労を強いられたが、より良い料理が出せるよう、また自分自身を鍛え上げようと奮闘した。
ユタビーチの牡蠣、菊芋、仔牛のタルタル、50年熟成のペドロヒメネスのジュレ
「食べる人が喜んでくれることがうれしいという想いが原点にあるから、そのために何をするかを考えて行動していました。休日はフランス全土を回って食べ歩き。とにかくインプットしようと、給料すべて自己投資に費やしました」
1年半の研修期間を全うした後は、北海道・札幌で新店舗の立ち上げを任され、スーシェフとして勤務。しかし半年ほどで、16区に移転することになったパリ店への異動を言い渡された。
鴨のフォワグラ、燻製鰻、グリンピース、スペルト小麦とコシヒカリのリゾット
「ゆくゆくはシェフを引き継ぐよう言われたんですが、そうなると辞められない。本当はフランス人が営むレストランでしっかり修業をしたいとも考えていたんですが、前回の渡仏で何度か現地の一流レストランへ研修に行った経験で、シェフの発想や姿勢は学べても、技術を学ぶようなことはなかったんです。『そこに1~2年いるより、その若さでパリでシェフになれるのは、すごいチャンスじゃないか』という社長の言葉に、そのとおりだと思い、もう修業は終わりにしようと覚悟を決めました」
バンカの鱒のミキュイ、サフランのアクセント
スタッフを自分の弟のように愛情をかけて育て、会社の貢献にも努めた10年間。
2004年10月、再び渡仏。ほどなく二十代の若さでシェフとなった。最初の1~2年間は平松社長と一緒に料理を考え、その後は独自のメニューを立てることになる。
ロゼールラムチョップ
「料理は素材ありきです。ロスを出さず新鮮な素材で料理できるよう、アラカルト(一品ずつ注文される料理)をやめにしたいと。売上げの展望を立て、達成できなければクビにしてくださいと、仕入れから任せてもらうことに責任を持ちました」
天然エビ、クードロマネスコ、有機ベビーリーフのバリエーション
生産者のもとを訪ね、密にやり取りを重ねて、より良い素材を手に入れられるよう奔走。仕入れたものも、寝かせて旨味を高めるなど、努力を惜しまなかった。
3kg の サン・ピエール(的鯛)
「どうすれば、より良い状態にできるか。常に疑問をもつように、部下にも伝えていました。店舗経営に加え、社長に言われていたミッションとして教育があったんです。シェフ候補の社員の仕上げとして、パリ店で1~2年研さんを積んだ後、そのレベルにまで昇華できるようにと。僕自身、才能があったわけではないですが、スタッフを自分の弟のように愛情をかけて育て、会社に貢献しようと奮闘しました」
フレーズデボワ(野苺)
やがて10年近く経ち、自分のやれることはやり切ったと思うときが来た。自身の職人的な感性を更に研ぎ澄ますためにも独立の道を選ぶ。それならパリで勝負がしたい、このまちに恩返しができればと、2014年7月末、18年以上も勤めた株式会社ひらまつを退職した。
黒トリュフ
良い素材を手に入れる信頼を得て、苦労の末に開業。世界最短で一つ星店に。
独立の準備期間は、出張料理や料理教室などを行い、生計を立てた。さらには、その仕入れで訪ねて惚れ込んだ食材店『Terroirs D’avenir(テロワール・ダヴニール)』でも働くことに。生産者のことを大切にするという視点でも考えが合致していたという。
「Terroirs D’avenir で働いた理由と目的はシンプルで、パリの店で1番の質の魚介類を手に入れるためには、そこの社長やスタッフに自分がどういう人間か、そしてどういった事を今後していきたいのか、しっかりとアピールする事でした」
ユタビーチのジャンポール産の牡蠣
「そこでは末席にいる自分が、『良明にならこの最高の素材を委ねられる』と、厳しい時化(シケ)の状況でも、物がない中でも寄り抜いて送ってもらえるような関係を築くためでした」
給与も『ひらまつ』で料理長をしていた時とは比較にならない最低賃金。独立の準備や場所探しで時間もお金もない中でのことだったと振り返る。
ブルターニュ、フィニステール産のオマールブルー
「目的がはっきりしていたので、場所が決まるまで出来ることを全てやり貢献しました。今では社長のサムエルやチームとしっかりとした信頼関係があり、技術的な面など頼ってもらう事も良くあります。それは、自分の目的以外に、時間やお給与などのコンディションを度外視しても、その場にいたらしっかりと貢献する、結果を残すという気持ちがあったからだと思います」
L'Archeste 79 RUE DE LA TOUR 75116 PARIS
一方で、開業への道筋は、2015年11月に起こったパリ同時多発テロ事件が大きな壁となる。
「2016年3月、ようやく物件を見つけたので仮契約をしたものの、ほぼ大丈夫なはずだった銀行からの融資が受けられなくなってしまったんです」
「そこで自分の独立を応援してくれていた友人に、力を貸してもらいたいと声をかけて。食事面で還元する独自の方法を考え、結果、たった5日間で30数人から8,000万近くを無利子無担保で融資してもらいました。彼らからの信頼は自分にとっての宝です。改装費や人件費は最小限に抑え、その分、食材費をしっかり確保する形で良い料理を提供し、恩返しをしていこうと」
ミシュランガイド一つ星取得時の授賞式
こうして2016年9月、パリに『ラルケスト』をオープン。開業4ヵ月後にはグルメ雑誌『フーディング』で絶賛され、その翌月にはミシュランガイド一つ星を獲得し、一気に人気店となった。
「まだチームとして固まっていない状態だったので、困ってしまったというのが正直なところです。だけど開業から星獲得までの期間が当時の世界最短だったこともあり、融資をしてくれた人も母親もとても喜んでくれて…そのことがうれしかったですね。ただ、僕のベースは小学生の頃から変わらず、食べた人に喜んでもらうこと。『おいしい』って感動してもらえたら、自分の生きている価値を感じるんですよね」
「オープンして2年後の2018年9月、日仏友好160周年の際には、皇太子殿下(現天皇陛下)が、民間では唯一当店にいらしてくださいました。海外で日本人の料理人が頑張っているということにも大変興味をもたれ、私の話にもしっかりと耳を傾けていただきとてもうれしかったです。また、その約半年後には、安倍総理ご夫妻(当時)にご利用いただき、その後、『外遊の初日だったので、食事は控えめにと思っていましたが、とても美味しかったので、全部いただきました』と移動中の政府専用機からメールが届き感激 しました。超多忙な日本の要人が、海外での大切なお時間を当店でお過ごしくださったことがありがたく 、誇らしく感じています」
L'Archesteのスタッフたちと
気持ちを込めた『ラルケスト』の製品が人の喜びにつながれば、意義がある。
店舗経営は順調だったものの、2020年のコロナ禍により事態は急変。3月15日にロックダウンとなり、その後、9月から再開したものの、10月半ばに再びロックダウンとなってしまった。
「24年間ノンストップで走ってきたなか、今回初めて料理をつくらない時間が山ほどとれ、いろんなことをとことん考えました。今までは自分の店で自分の好きなことができればいいと思っていて、何かお誘いがあっても全部遮断していたんですが、その話が面白かったり新しい挑戦だったり、何か面白い化学反応が起きそうだと思ったりしたらやってみようと」
ディレクターのドラガン氏
コロナ禍で店舗が営業できない期間を利用して、2021年3月末に帰国。4月上旬からは、パリの友人が神楽坂(東京)に構えた店舗を借りて、1日1組限定の営業を6月頭まで続けた。その翌々日から数日間は、神奈川・鎌倉にあるレストランとのコラボで、カカオを使った新しいコース料理を創作。現在は、その間も進めてきた『ラルケスト』ブランドの製品づくりに、力を入れている。
テイクアウト・デリバリーで提供した chirashi (チラシ)
「まだ試作段階ですが、フランスから厳選したフランスの長期熟成チーズを使ったチーズケーキや、パリでもつくっていたトリュフショコラの製品化を、平和島(東京)で進めています。現地のスタッフが、熱い気持ちをもって一生懸命やってくれる、めっちゃいい人たちなんですよ。職人気質なので、今までは、自分の店で自分が理想とすることができればいいと思っていて、コラボ商品は真逆の世界だと切り捨ててしまっていたんです。でも、試行錯誤を重ねて良いものをつくれてお客様に喜んでもらえれば、一緒なんじゃないかって」
ビュルゴー鴨と鴨のフォワグラのショーソン 黒トリュフ(コロナ禍のdelivery料理)
パリの『ラルケスト』でしか食べられなかったものが、日本の家庭でも食べられるようになることが、人々の喜びや楽しみにつながれば意義がある。コロナ禍となり、そんな考えを抱くようになった。
ガリゲット苺、マスカルポーネ、エルダーフラワー
「しっかりと気持ちがあれば、自分の技術や想いを商品として売ることは、決してビジネスライクなことではない。そう思えるようになりました。まだ形になるかはわかりませんが、コンビニ商品をプロデュースする話も同じです。コンビニは日本に何万店舗もあり、離島や過疎化が進んでいる地域には、新しい商品を楽しみにしている人たちがいる」
イカ墨のポテトチップス、ハドックムースライン
「何が大事かを忘れず、目的をもってつくった良いもので社会貢献できるものなら、自分もやりたいなと。このコロナ禍でお店が駄目になってしまうなら、経営者としての自分のスタイルはだめだということです。じゃあ今、何ができるのか。お店を守るために、会社全体として経営を成り立たせることも重要だと、考え方が180度変わりました」
特大天然帆立貝
どこに居たかより、何をしたか。人の畑を自分の畑だと思って働けるかどうか。
パリでもこの6月から50%の集客が可能となった。休業を機に、老朽化が進んだ部分の改修工事を進めていた『ラルケスト』も、9月の営業再開を予定している。
金目の炭火焼き
「今の自分があるのは、これまでの経験があったからこそ。『ひらまつ』には、感謝しかありません。そこに引き合わせてくれたのが学校です。今考えるともっと勉強しておけば良かったなと思っています(苦笑)。そのときは気づいていませんでしたが、やはりベースはクラシックなので、しっかり学んでいれば、現場で得た内容も頭に入りやすかったんだろうなと。ただ、『勉強しなければいけない』という気持ちだとしんどいので、『より良い料理を提供するために知りたい』などと前向きに思えることが大事なんでしょうね」
「参考にならない学生だったのが申し訳ない」と笑う伊藤さんだが、これまでの経験を振り返り、今から道を切り拓こうとする後輩たちに伝えたいことがあるという。
「これまでの環境が今につながっている一方で、どこに居たかより、何をしたかが大事なのも間違いありません。時代が変わり、今の学校にも職場にも昔のような厳しさはないでしょう。だけどどんな分野でも、世界で戦える人、人生を楽しめる人を育てるには、僕たちも愛情をもって真剣に向き合い、何が大事かを伝える必要があると思います。大切なのは、人の畑を自分の畑だと思って働けるかどうか。そういう人間は必ず伸びていくので、今、目の前にあることを、自分事だと考えて行動できる人になってほしいですね」
エコール 辻󠄀 東京の恩師「髙橋晶子先生」と(インタビュー場所 エコール 辻󠄀 東京)
エコール 辻󠄀 東京
辻󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジ
(現:辻󠄀調理師専門学校 東京)
フランス料理とイタリア料理の現場で、
必要となる技術や力を集中して学びとる。
フランス料理とイタリア料理。
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学びながら、考え、つくる力を身につける。
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