No.151
「料理が好き」で進んだ高校の調理コースで出会った先生たち。その姿に憧れ、教員になることを目的に知識や技術を吸収し、夢を叶えた。
鹿児島県・鹿屋中央高等学校 助教諭
杉之尾拓夢さん
profile.
鹿児島県県出身。鹿屋中央高等学校 調理コースに進学。エコール 辻󠄀 大阪 辻󠄀󠄀フランス・イタリア料理マスターカレッジを2019年卒業後、10月から辻󠄀調グループ フランス校に留学するも、コロナ禍により2020年3月に帰国。地元に戻り、約半年間の食肉加工会社勤務を経て、2021年4月、鹿屋中央高等学校の調理科助手となり、2年生の西洋料理を担当。2022年4月からは助教諭として全学年の調理実習補助を担当する。
access_time 2022.06.17
※感染対策を施しながら撮影時のみマスク・シールドを外しています。
料理は好きでも、救急救命士になるという幼い頃からの夢は変わらなかった。
九州の南東部、鹿児島県鹿屋(かのや)市にある鹿屋中央高等学校。その卒業生である杉之尾拓夢さんが同校に勤め始めたのは、2021年4月のこと。現在は「調理コース」と「食物コース」の助教諭や、「調理クラブ」の顧問などを担っている。
1999年、鹿児島県垂水市に生まれた杉之尾さん。小学校1年生から習っていた剣道へ行く前には、祖母の家で一緒に料理をするのが常だった。
「高学年になると一人でつくるようにもなり、『卵焼きに何を入れたらおいしくなるか』なんて、日替わりで試してみたりしていましたね。おいしいものができたり、食べてもらって喜ばれたりするのがうれしかったんです」
共働き家庭だったこともあり、中学生になると自宅で妹と一緒に夕食を手がけるようになり、ますます料理が好きになっていく。とはいえ救急救命士になりたいという、保育園の頃からの夢は変わらなかった。
「それで公務員コースのある高校に行きたかったんですが、私立でお金がかかるため、親から言われた進学の条件が特待生になることでした。そのために、あまり好きではなかった受験勉強も頑張ったのですがダメで…。それならばと受験した調理コースで特待生として合格。学費免除がとれたので、鹿屋中央高校へ。思い返せば、今までで一番、雑な選択でした(苦笑)」
高校時代
1年次は日本料理、2年次は西洋料理、3年次は中国料理をメインとする鹿屋中央高等学校のカリキュラム。卒業時に国家試験免除で、調理師免許が取得できる。いざ進学すると、調理実習はとても楽しく、何より教えてくれている先生に魅了された。
「まず日本料理を教わったんですが、その手さばきや無駄のない動きがかっこよくて…。他の分野でも教わる先生が皆プロ感いっぱいで、授業もとてもわかりやすく惹きつけられる。こんなふうに自分もなりたいと、ものすごく憧れました」
高校時代
亡くした友人の分まで、自分が料理をやり続けようと考えるようにもなった。
幼い頃から料理をしてきた分、自分が一番うまいだろうと思っていた。しかし日本料理店の息子だったクラスメイトには、「初めて料理で負けた」と実感した。
「キャベツやキュウリの千切りの試験があったんですが、彼だけが速くて薄さも完璧。それがもう悔しくて…。ほかにも調理クラブに所属している同級生たちは、みんなうまかったので、自分も入部することにしたんです。それからはお互いライバル心を燃やし、常に競い合っていました」
しかし高校1年の夏休み、良きライバルだった親友は、突然この世を去ってしまう。
「一緒に川へ遊びに行ったとき、その疲れからか持病が出てしまったようで…。ショックで立ち直れないぐらいでしたが、声をかけ支えてくれたのが、高校の先生だったんです。人の死を目の当たりにし、救急救命士の世界の厳しさも痛感。彼がやれなかった分、自分が料理をやり続けようと考えるようにもなりました」
2年次になり西洋料理を学び出すと、さらにその面白さに夢中になる。
「日本料理は砂糖、醤油、みりん、いろんなものを使いますが、西洋料理は基本的に限られた調味料しか使わない。そのことにまず驚きました。一番ビックリしたのは、自分たちだけでつくったポタージュに比べ、部活のときに先生と一緒につくったポタージュがものすごくおいしかったこと。材料も分量もまったく同じなのに、なんでこんなに違うんだと衝撃で…。野菜の炒め方や材料を入れるタイミングなどで別物のようにもなる。そこから一気に、西洋料理に興味をもったんです」
調理クラブでイベントへ参加
「先生のようになりたい」という憧れが、「料理を教えたい」という想いへ。
調理クラブは厳しくも楽しく、毎日が充実していた。
「技術はもちろん、将来重要なマナーの面でもしっかり指導してくれ、自ら動く力も育ててもらえました。先輩たちがつくって道の駅などで販売していたドレッシングも僕らの代でリニューアル。イラストや説明を入れたパッケージにしたら人気が出て。自分たちで設置した学内の自動販売機やスーパーでも販売するようになりました。商品作りはもちろん、材料の発注やお金の管理なども全て自分たちで手がけていました」
調理クラブで開発した『ドレッシング』『レトルトカレー』
週に1~2回は地域のイベントにも出店。漁港では漁師飯、地元産のピーマンを子供でも食べられるようにしてほしいというリクエストには、粉末にして使うシフォンケーキを開発するなど、さまざまなメニュー開発にも取り組んだ。
「鹿屋産の醤油や黒豚など、地元のものを使ったレトルトカレーも開発しました。県内の高校7~8校と独自のパンを開発するというローソンの企画にも参加。何十種類とつくって試食し、麻婆豆腐のパンを出品。県内で一番の売上げとなり、表彰されたのもうれしい思い出です」
「ベーカリー甲子園」へ出品の、『黒豚麻婆パン』が、県内で一番の売上げとなり表彰された
常に手本となってくれた、「先生たちのようになりたい」という憧れは、やがて「料理を教えてみたい」という想いへとつながり、教員を目指す道へ。そのためには、自分に一番知識や技術がなければいけないと、専門料理の中でも西洋料理を学べる学校への進学を希望。エコール 辻󠄀 大阪のフランス・イタリア料理マスターカレッジへの進学を決める。
「調理クラブに後輩が入ってきたとき、教えるのも楽しかったんですよね。エコール 辻󠄀 大阪のオープンキャンパスに行って、初めて見る食材や設備にも圧倒されて、進学するならここしかないなと。学費の問題もありましたが、ずっと頑張っている姿を親も見てくれていて、進学を認めてくれました」
エコール 辻󠄀 大阪時代
現地の肌感も含めて伝えられるような先生にもなりたいと考えた。
高校と同じくエコール 辻󠄀 大阪へも自信をもって入学したものの、ジャンルに特化して学びたい学生たちが全国から集まってきている環境は、そう甘くはなかった。
「入ってすぐに『自分、そうでもないな』と(笑)。個人実習で一番差がわかるんですね。完璧なオムレツをつくるクラスメイトを見て火がついて。わからないところは先生にすぐ訊き、その日のうちに解決するようにして腕を磨きました」
エコール 辻󠄀 大阪時代
ここでも最も惹かれたのは、杉之尾さんいわく「プロフェッショナルの集まり」である教員たちだった。
「材料を入れた順番や火を通した時間など、完成形からどう調理したかを指摘されることに驚きました。実習の前には必ず、この料理がどこで生まれ、どういう変遷を遂げたのかなど、理論的な部分も学べるが面白くて…。炒める加減や塩の取り方など、細かいところから丁寧に教えてもらえ、一つひとつの動作が勉強になりました。食材も初めて見るものばかりで新鮮だし、常に本物を見られる。『フランスではこれを使う』じゃなく、直輸入された食材など、毎回実物を見られた経験も大きかったです」
将来の目標を知る担当教員に「助手の動きを見ておけ」と言われていたとおり、実習ではサポートの仕方も頭に叩き込んだ。卒業後は、教員になるための技術を磨こうと、大阪か東京の個人店で働きたいと考えていた。
「進路について担任の先生と話していくうちに、卒業後に進めるフランス校が気になり始めて…。現地の肌感も含めて伝えられるような先生にもなりたいと考えたんです。ギリギリまで悩みましたが、強い意志があるならと最終的には親も認めてくれました」
担任教員の勧めにより、卒業後は半年間、辻󠄀調グループでTA(ティーチングアシスタント)を担当。生徒に教える機会も多く、その楽しさをあらためて感じた。厳しい教員につき、怒られることばかりだったが、最終日には認めてもらえたことがうれしかった。
辻󠄀調グループのTA(ティーチングアシスタント)時代
そして2019年10月に渡仏。とくに意欲が高い学生の集まりだったため、このままではついていけない。留学早々に焦りを覚え、必死に勉強に励んだ。そのかいあって、調理師学校の学生を対象した国際料理コンクール「トロフェ・ミル」に、日本代表として出場できることに。
フランス校時代
「学校に優勝した先輩の写真が飾ってあり、ずっと憧れていた大会でした。〆切ギリギリまでレシピを考え抜いて応募したので、言葉にできないぐらいうれしかったです。男女ペアで出場するんですが、決定後のレッスンは今までで一番しんどかったぐらいに頑張り続けて…。3月16日の数日前、コロナ禍で中止が決まったと知らされ、泣き崩れました」
フランス校時代
「興味があるなら行け。あとは入ってから学べばいい」という恩師の後押し。
フランス校でのカリキュラムも、現場研修を前に中止となり、全員が帰国することに。当時は就職活動ができる状況でもなかったため、杉之尾さんは地元鹿児島県へ。母校を通じて紹介のあった地元の食肉加工会社の商品開発部で働くことになった。
「コロナが明けたら大阪に戻ることを前提に、商品開発を担当させてもらっていたんですが、半年ほどが経った頃、教員の助手に空きが出るからどうだと德留先生に声をかけていただいたんです」
高校2年次には担任でもあった德留先生からのせっかくの誘いではあったが、まだ現場で経験を積むつもりでいた。周囲からは「せっかくフランス校まで行ったのに、フランス料理店で働かないなんてもったいない」との声。2ヵ月ほど葛藤を続けたが、結論が出ない。エコール 辻󠄀 大阪時代の恩師に相談しようと、大阪へ行った。
「『技術はさておき、やりたいのはどっちだ』と訊かれ、昔からの夢だった学校の先生だと答えると、『そちらに興味があるならまずは行け。フランスで知識も技術も身につけているから、あとは入ってから学べばいい』と後押ししてもらえて…。もったいないかどうかは自分で判断すること。フランスで学んだからこそ、地元で教えられることがある。鹿児島からフランスで働く料理人や、有名になる料理人を育てようと目標が決まりました」
「かっこいいな」と憧れをもたせたり、きっかけを与えたりできる授業を。
こうして2021年4月、調理科助手として鹿屋中央高等学校の教員となる。これまで助手は非常勤だったが、常勤できるようにと德留先生が掛け合ってくれた。
「彼がフランス校に行っていた経験を管理職に話したら、ぜひ来てほしいと。留学が決め手になったとも言えるでしょう。僕自身も高校の調理科に進み、料理をお客様に提供するだけじゃなく、料理人になりたい生徒たちを教えるのも調理師だと、経験を積んで教員の道に進みました。教え子たちが自分のお店を出したり、ホテルの料理長になったり、教員になったりと、それぞれに育っていく。楽しみの大きい仕事ですよ」(德留先生)
徳留先生(右側)
初年度は、西洋料理を学ぶ2年生の実習助手となった杉之尾さん。卒業生が教員となる初めてのパターンだったこともあり、とてもウエルカムな空気だったと振り返る。
「専門学校までとはいかなくても、できるだけ本物に近づけたいと、使っている食材の質を上げたり、器具をそろえたり、本当に自由にやらせてもらっています。昔は先生と生徒という関係だった德留先生と、今では一緒に仕事ができていることがうれしい。先生方のように、自分も『かっこいいな』と憧れをもたせたり、きっかけを与えたりできる授業をしていきたい。興味をもって学べば吸収する量が全然違ってきますからね」
生徒のできなかったことが、教えていくうちにできるようになるのが楽しい。教員はやはり理想の職業だった。杉之尾さんが担当になってから、実習を振り返るノートの提出率が100%になったという。
「心がけているのは、自分から率先して行動することを促す指導法。自分が生徒ならどうすれば提出するかと考え、時間はかかりますが、初っぱなからコメントを3~4行書いて返したんです。すると生徒がドはまりしてくれて、交換日記みたいに、授業だけでなく部活の話などもやり取りするように。早く実習ノートを返してもらいたいと、すぐ提出してくれるようになりました。ほかの先生から、実習に対する態度も良くなったと言われ、とてもうれしかったです」
そのときは報われなかった努力も、長いスパンで見れば必ず自分の糧になる。
2022年4月には助手から助教諭となり、生徒指導も担当。2年生の西洋料理だけでなく、1年生の日本料理と3年生の中国料理を含め、すべての実習をサポートするようになった。「教えるうえで、全学年、すべての料理を見ておいたほうがいい」と德留先生。
徳留先生(左側)
「1年生で土台をつくって、2年生でその世界を広げて、3年生で進路を選んでいく。3学年を受けもつことで全体が見えてくるだろうと、配慮したつもりです。失敗もしながら経験を積んで、一つひとつ成長してもらえればいい。杉之尾先生は生徒と年齢も近くて取っつきやすいし、しっかり学んできた実績もあります。ゆくゆくは調理・食物の総責任者を引き継いでくれるのが理想ですね」(德留先生)
「器具の使い方など、本当の基礎から教える1年生の担当もやりがいがある」と杉之尾さん。「早い段階で惹きつけて、料理にめざめてくれる生徒が増えれば」と目を輝かせる。
「昨年受けもった2年生が3年生になり、『先生のように料理を教える側に進みたい』と相談され、すごくうれしかったんですよね」
「先生に対する意識が変わったのは、この高校に入ってから」だと杉之尾さん。「いつも寄り添って、何かあれば本気で怒ってくれた」と振り返る。
「辛いとき悩んだときには、どんな内容でも常に助けてくださった先生方にも恩返しがしたいんですよ。幼い頃からずっと変わらなかった救急救命士になりたいという夢を、高校3年間で、教えるという大きな夢に変えてくれたのは、高校の先生方のおかげです。僕のように、楽しかった高校で人生がより良い方向に変わったという生徒が増えるぐらい、寄り添っていきたいです」
德留先生も、「教えることで少しでも興味をもち、料理の道に進む人が増えればうれしい」と同意見。「いろんな業種が機械化されてきていますが、機械と職人が握ったお寿司との違いは歴然です。人間が生きていくうえで不可欠な食に携わる、料理人の仕事がなくなることはありません。おいしいものをつくることで、人を笑顔にできるし、健康にもできる。技術職なので、本人が努力さえすれば結果が伴ってくる、魅力ある仕事です」と心強いメッセージを送ってくれた。
それに頷く杉之尾さんは、「コロナ禍で自分も厳しい経験をしましたが、真剣に取り組んでいけば、どこかにチャンスは転がっている」と力強く語る。
「今の生徒にも言っているのは、表面上で判断するのではなく、一度本気で取り組んでみることが大切だということ。たとえ目標を達成できなくても、努力したこと自体も成果になる。料理だけじゃなく、自分が立てた目標に対して一生懸命できるようになってほしいし、そのときだけで失敗したと判断するんじゃなく、長いスパンで見れば必ず自分の糧になっているんだということを、自分の経験をもとに伝えていけたらと思います」
辻󠄀調グループ フランス校
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