No.165
地域の食材や文化を、ここでしか味わえない美食に昇華させた「里浜ガストロノミー」に。めざしたのは、旅の目的地となるレストラン。
pesceco(ペシコ) オーナーシェフ
井上 稔浩 さん
profile.
長崎県出身。長崎県立島原工業高等学校から大阪・辻󠄀󠄀調理師専門学校に進学。2005年の卒業後、大阪・北新地の寿司店に就職するも、1カ月で退職。大阪・南船場でエスニック料理を手がけるカフェやアルバイトをしつつ、アジア各国を旅する生活に。地元・島原市に戻り、2009年に父親と『お食事処いのうえ』を開業。2014年に独立し、イタリア料理店『ペシコ』をオープン。2018年の移転を機に、「里浜ガストロノミー」を打ち出す。2019年には、ミシュランガイドで一つ星、『RED U-35』でゴールドエッグを獲得。
access_time 2023.05.12
「いつか父の選んだ魚を料理する、料理人になりたい」という想いを形に。
「浜辺の散歩」「波紋のように」「食猟師からのお便り」…イマジネーションを掻き立てられるメニュー名からなるコース料理。ゆっくりと時間をかけ、そのストーリーの丁寧な説明とともに給仕される。長崎県の島原半島、有明海に面した『ペシコ』。イタリア料理でもフランス料理でも日本料理でもない、ここだけの「里浜ガストロノミー」を提供する、まさに唯一無二のレストランだ。
「一本の映画のような流れのコース料理を、4年かけてつくりました。一般的なメニュー名であれば、どんな料理か想像がつくでしょうが、抽象的なイメージのものなので、食べに来ていただかないとわからない。その時々の食材に合わせて内容も変化させられますし、それでいいのかなと。季節や状況に応じた最も良い食材を、最も良い形で提供するには現状、1日6名が限界。自分たちのできることを、できる形で続けています」
オーナーシェフの井上さんは、この町の出身。家業は、祖父が立ち上げた生鮮スーパーだった。祖母が惣菜部門、父が鮮魚部門を担当する家族経営。幼い頃から父と一緒に市場や釣りへ行くのが日常で、中高生の頃には、自分で釣った魚をさばいて、スーパーで売ることもあった。
「いつか父の選んだ魚を扱う料理人になりたい。幼い頃から祖母に『手に職があれば食いっぱぐれない』と言われてきたこともあり、自然とめざすようになりました」
都会の刺激に浮かれた学生時代。寿司職人の登龍門に就職するも、1カ月で挫折。
田舎から出たかったこともあり、1年間で和洋中の料理が学べる大阪の辻󠄀󠄀調理師専門学校へ進学。決して真面目な学生ではなかったと振り返る。
2021年にジャパンタイムスデスティネーションレストラン発表まえに辻󠄀󠄀芳樹校長が来店
「もともと洋服や音楽が好きだったので、住み込みのアルバイトで稼いだお金も、ほぼ遊びに使っていました。実習は楽しかったです。普通なら出合えない食材にふれて、教養が増えていく。教養って家柄にも左右されやすいものですが、専門学校へ行けば平等に得られるのが、素晴らしいことだなと。今思い返すと先生方含めすべて本物がそろっていたし、現場の緊張感が学生時代に味わえたのもいい経験でした」
2005年の卒業後は、大阪・北新地の寿司店に就職。いつかは、故郷に帰って父の魚を活かせるようになろうと、寿司職人の登龍門と言われる有名店を選んだ。
「だけどわずか1カ月で辞めてしまいました。原因は自分です。できもしないのに『自分には、もっとできることがある』と思ってしまって…。当たり前にある、理想と現実のギャップに堪えられなくなったんです」
その後も地元には帰る気はなく、都会で暮らしたかった。働く場所には困らない。若者の街、南船場にあるエスニックのカフェや居酒屋でアルバイトをした。
「専門書を見ながらメニューの提案もさせてもらったんですが、自分がつくった
ものを喜んでもらえるのが純粋にうれしかったです。専門学校で学んだクラシックなものとは違う、スパイシーな料理にはまり、アルバイトでお金を貯めては、アジアを旅する、バックパッカーになりました」
旅をした分だけ、自分の土地が恋しくなる。地元に帰り、父と居酒屋を開業。
ベトナム、タイ、台湾、インドネシア…さらには沖縄などの島国へ。観光地ではなく市場や集落に足を運び、現地でしか食べられないストリートフードを味わう旅。民族的な衣服や建物からも刺激を受けた。
「当時も日本では、いろんな国の料理が高水準で食べられる状況でしたが、現地に行かないと感じられないもの、食べられないものはなくならない。わざわざ行かなければ得られないものがあることを実感した経験が、今の芯にもなっています。 そのなかでもやっぱり一番魅力的だったのは、食だったんですよね」
旅をすればする分だけ、自分の土地が恋しくなる。当初の目標どおり、ゆくゆくは実家に帰ろうと考えていた。
「人との深いつながりは、地元のほうがある。市場には、小さいときから見ているおじちゃんたちが今でもいます。料理をしていくなら、地元の人に食べてもらいたい。そう考えていた頃に、実家の父から居酒屋をやろうと声がかかって。高齢化で地元の人も少なくなり、スーパーの経営が厳しい。その食材を回転させるための考えだったようです」
こうして2009年5月に、『お食事処いのうえ』をオープン。カフェで学んだエスニックな料理を提供したところ、地元にない文化で喜んでもらえた。さらに専門書を読み、料理にのめり込んでいく。
「エスニック料理に始まり、さまざまな料理を模索していくうちに、イタリア料理に惹かれていったんですよね。本を買ったり専門学校時代のノートを参考にしたりしながら、食材を取り寄せ、模範してつくる日々。一方、昼間はおばあちゃんの惣菜づくりを手伝っていました。当時はなんでもっと派手な料理をしないのかと感じていましたが、このとき郷土料理を学べた経験も今につながっています」
食材にこだわったイタリア料理を追求するも、理想通りにはいかなかった。
もっと食材にこだわった料理をつくりたい。料理への情熱は高まる一方だった。
「産地が近いことからも、うちの野菜を使って、魚を使って、といった人たちと出会うようになるんです。もらったトマトは食べたらおいしいけど、パスタにすると甘すぎる。そういう食材が増えていくと、レシピ通りにつくるとなんか違う。〇〇料理といった既存の様式に寄せなくても、食材に合わせる形でおいしい料理がつくれるんじゃないかと考えるようになったんですが、当時はまだその技術もありませんでした」
開業翌年には、幼馴染みの景子さんと結婚。長男も生まれ、家庭を守っていかなければならないが、食材にこだわればこだわるほど経費も上がり、採算が合わなくなってくる。店は繁盛しているにもかかわらず、厳しい経営状況が続いた。そんななか、勉強にと仙台のイタリア料理店『アル フィオーレ』を訪ねたことが転機となる。
奥様の景子さん(左)
「『地方だからこそできるイタリア料理店をやりたい』という意志をシェフに伝えると、食事の前に市場や畑にも連れて行ってくださって。数をこなすのではなく、一つずつのプロセスを丁寧に手がけ、時間をかけて料理をし、はるばる来たお客様に振る舞う。旅をしてでも行く価値のあるレストランを目の当たりにして、自分がやりたかったのはこれだと衝撃を受けました」
その後、父親に独立を願い出たところ、他人に迷惑をかけなければいいと認めてくれ、2014年10月、商店街のはずれに『ペシコ』をオープン。「島原がもしイタリアの州だったら」というコンセプトで構えた、地元の魚介類を活かす小さなイタリア料理店だった。
「妻と二人、昼は1,000円からのランチ、夜はアラカルトと5,000円のコースで始めたんですが、結局は2~3件目の居酒屋扱いしかしてもらえず…。どうにか食べてはいけるものの、食材へのこだわりも報われず、まったく理想通りにはいきませんでした」
地元のいい食材を使い続けるため移転を決意。“旅をさせるレストラン”に。
ちゃんと食べに来ていただけるよう、もっと広く知ってもらいたい。そう考え、2016年、35歳未満の料理人を対象としたコンペティション『RED U-35』に初挑戦する。結果、436名の応募者のうち上位21名となる二次審査通過者、シルバーエッグに輝いた。
「これは調子に乗りましたね(笑)。だけど自己紹介が曖昧で。地方でイタリア料理をやっているといっても、どこかで修業を積んできたわけでもない。地元の食材を活かすなんて、みんながアピールすること。『じゃあ君はなんなの?』と訊かれても答えられなくて…。自分が本当にやりたいことは何かと深く考えるきかっけになりました」
一方で『RED U-35』の効果は大きく、地元の人たちの見方も変わり、食事目的のお客様が増えていった。しかしコース料理が出るのもごくわずか。地元からの集客だけでは自転車操業で、自分が本来、提供したい地元のいい食材も使えない。自分と向き合い、「何かを変えなければ」という思いを強くしていった。
「ちょうど妻が3人目を身ごもったんですが、今のやり方じゃ使いたい食材も使えないし、家族も養っていけない。地元のいいものを提供するには、生産者さんに還元する必要があるし、しっかりとした対価を得なければならない。そう悩んでいたときに知ったのが、常連のお客様が所有されていた、今の海岸通りの場所です。まさに僕が昔から遊んでいたあたり。この場所で、ここでしか食べられない料理を提供したい。憧れていた“旅をさせるレストラン”のビジョンとつながりました」
『ひとつの鍋で』
ありったけの考えを一組一組に注ぐことで喜ばれる。ようやく答えが見つかった。
熱い想いに賛同してもらえ、移転準備を進めていく。地域の生産者たちとのつながりも、さらに深めていった。
「移転前、妻のいない半年間は予約制のコース料理のみにしたので、休みになる日も多くありました。その余白の時間、畑に行ったり水をくみに行ったりと島原の空気を感じ、どういう料理をつくりたいか、どういうお店にしたいかをとことん考えていったんです」
店の窓外に広がる有明海
こうして辿り着いた答えが「里浜ガストロノミー」だった。ガストロノミーとは、美食を文化の面からも考察すること。
「このあたりは漁師まちでしたが、跡を継ぐ人も少なく、今では魚が思うように獲れていません。場所をつくることで、失われつつある文化にスポットがあたるようにしたいと考えました。とはいえ2018年8月の移転後すぐは、なかなかお客様も入らなくて…。ありあまる時間に漁師さんや農家さんのもとを訪ね、昔は何をどうやって食べていたのかを学び、『ペシコ』の料理に応用していきました」
店の前の海岸から有明海を臨む
地元の食材と文化にとことん向き合いながら、料理を研ぎ澄ましていく。すると、ほどなく転機が訪れる。2019年7月、ミシュランガイドで一つ星を獲得。9月には『人生最高レストラン』というテレビ番組で紹介され、さらには11月、挑戦を続けていた『RED U-35』で、ファイナリスト6名を指すゴールドエッグに選ばれた。
REDU35の表彰式の後
「テレビで紹介された瞬間から電話が鳴り止まず、半年ほど先まで予約でいっぱいになったんです。ただ、当時は8,000円と10,000円のコースで1日2回転の営業をしていたんですが…慌ただしくてどうも期待に沿えている気がしない。そんななか襲われたのがコロナ禍でした」
全国からの予約はすべてキャンセルになり、夜も営業ができない。それを機に、1日1組、14,000円のコースのみにシフトした。
pesceco (ペシコ)外観
「研ぎ澄ます時間もできましたし、ありったけの考えを一組一組に注げるようになりました。すると驚くほど喜んでいただけ、定期的に来てくださる方も増えていったんですよね。自分たちがやりたかったのはこれだったのかと、ようやく答えが見つかりました」
生産者の元へ足を運ぶ
既存の料理とは違う「里浜ガストロノミー」を文化になるまでつくり続けたい。
「里浜」と銘打つからには魚と野菜に特化しようと、移転当初は考えていた。しかし真冬の1月・2月はシケが続くときもある。
生産者の元へ足を運ぶ
「“売り”をつくるために無理して魚を使ってしまうのは理にかなっていない。たとえば、鹿児島県出水市では、冬場の農地にお米をまいて渡り鳥の鴨を餌付けし、網でとる文化がもともとあったのが、九州なので二毛作三毛作で収穫できていたため、一時は途絶えていたんです。それを最近、復活させた人たちがいて。土を休ませる意味でも理にかなっているからと思い、この鴨を使うようになりました」
併設されている鮮魚店『お魚いのうえ』
2022年6月には『ペシコ』の隣に、目標としていた鮮魚店『お魚いのうえ』を併設。家族経営のスーパーを譲り、別のスーパーのテナントに入ったり、転々としていた父に委ねる形でオープンさせた。
『浜辺の散歩』
「父の選んだ魚を料理するだけでなく、専門店の価値を自分たちでつくりたかったんです。おかげさまで地元のお客様が身近に『ペシコ』のエッセンスを感じられる場所にもなっていますし、『ペシコ』に訪れた遠方のお客様にもご愛用いただいています」
『波紋のように』
「父に限らず、真面目に取り組んでいる生産者さんが経済的にも成り立つ仕組みを保ちたい。地域の素晴らしい食材を子ども世代にもつなげていくことが目下の目標です。どう活かしていくか、模範がないから毎年考え続けていますが、おいしいものをつくるのが絶対条件であることに変わりはありません」
『くつぞこ』
地方の生産者が手塩にかけて育てたり、理にかなった手法でとったりする食材は、サイズも形も味も不ぞろいで規格外かもしれない。しかしいずれも、その土地の個性が表れている。「自分たちの土地のものが評価されることを、地域の人たちも喜んでくださっているのがうれしい」と井上さん。コロナ禍が落ち着いた現在は、海外からのお客様も増えてきた。
『多比良ガネ』
「いかに日本の食が魅力的で、観光資源になり得るか。食器や空間の演出も自分たちのすべてを注ぎ込み、喜んでもらうことが、旅をしに来ていただく意味になる。文化になるまでつくり続けたいと考えています」
『食猟師からのお便り』
「早々に挫折し、もやもやしている時期が長く続きましたが、結局は自分と向き合うしかありません。挫折しても『好き』が前提にあれば道は拓けると思うので、これから料理の道を志す人も、どんどんチャレンジしてほしいですね」
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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