INTERVIEW
No.161

将来を模索し大学へ進学。アルバイトでの経験が記憶に残る思い出となり、生まれ育った地でパティスリーを開業し、長年愛される店に。

1010banchi オーナーシェフパティシエ

小泉 直也さん

profile.
三重県出身。三重県立松阪高等学校から神戸学院大学の経済学部を経て、大阪の辻󠄀製菓専門学校に進学。在学中に大阪のパティスリー『ピアレス』で現場を経験。1992年に卒業後、神戸の『ダニエル』に就職。修業を積み、1994年10月、故郷の三重県松阪市で『お菓子茶屋1010番地』を開業。2012年にリニューアルオープンし、現在の形に。2018年にはブルーベリー農園を開園。
access_time 2023.01.13

自分で何かをやろうとは思いながらも、その“何か”がわからなかった。

三重県松阪市の『1010 banchi』は、所在地を名称にした人気のパティスリーだ。オーナーシェフの小泉直也さんは、1968年生まれ。家業の菓子問屋があった、この場所で育った。
「僕が生まれたときには、もう問屋業が衰退しつつあって。小学生の頃には、製造卸として結婚式の引出物になるバームクーヘンもつくり始めたんですよ。それが前身。お菓子は昔から当たり前のようにあって、仕事としても身近なもんやった」
工場(こうば)に加え、母が切り盛りする喫茶店も併設。両親とも忙しく働いていたが、幼少期には父がしょっちゅう遊びに連れて行ってくれ、釣りが共通の趣味になった。
最近行ったイカメタルでお父さん(左)と
「高校ではほとんどの生徒が大学をめざすなか、勉強に対しても大学進学に対しても意欲がわかず…。サラリーマンにもなりたくないから自分で何かをやろうとは思ってたけど、その“何か”がわからない。考える時間をつくるためだけにでも行ってこいって進学させてもろて、ありがたかったです」
こうして神戸にある大学の経済学部に進学。レストランでのアルバイトが転機となる。
「皿盛りのデセール(デザート)を初めて目にしました。今までオーソドックスなバームクーヘンとかケーキとかしか見たことなかったのが、目新しいし食べたらおいしいしで、一気に引き込まれて。アルバイトの僕が盛り付けたデセールでも『うわ~!』って大喜びしてもらえたのが、ものすごくうれしかったんを覚えてます」
大学生時代のアメリカ旅行

早い時期に経験を重ねて思い出をつくれば、その記憶にどんどん「複利」がつく。

さらにはホテルのラウンジでサービスマンとしてのアルバイトも経験。2年次になり30万円が貯まると、スキーサークルの友人とアメリカへと旅に出た。
「車も借りて、40日間でほぼ一周したんです。危険な目にも遭うたけど、楽しかったなぁ。世界観も変わったし、その頃にそういう体験ができたんも大きかったです」
大学生時代のアメリカ旅行
毎週のように釣りに出かけ、旅行やスキーも楽しむ大学生活。決して真面目な学生ではなかったが、とても大事なことを一つ教わったと振り返る。
「ゼミの先生が『人類最大の発明は複利』って話をしてくれたんです。アインシュタインの言葉らしいんやけど、お前の100万は俺の1千万と同じ価値があるって言われて、なんのこっちゃと(笑)」
「複利」とは、もともとのお金にだけ利子がつく「単利」に対し、利子にもまた利子がつく仕組みのこと。
「バブル絶頂期だったんで、100万を年利7%で回すと計算してみたら、自分が先生の年になる35年後には1千万超え…すっごいことを知ったと。これってお金だけの話やない。経験にも複利がつくと気づいて、その後の人生、ずっと意識するようになったんです」
なるべく早い時期にいろんな経験をして思い出をつくれば、その記憶にどんどん複利がつく。それらを受けて次にとる行動は、必ず価値のあるものになっていくと小泉さんは力説する。
「アメリカに行った経験があったからこそ、『次はほかの国も見てみたい』って欲求にかられたからね。じゃあ次どうするか。お金を貯めて、時間をつくるって行動が取れる。それで今までに30カ国ぐらい行ってるんです。早いうちに経験すればそれだけ世界も広がるんで、若い人はなんでも経験したほうがいい。思考も意識も、行動には勝らんと思いますよ」

将来必要なこと、役に立つことしかないから、勉強の何もかもが楽しかった。

やはり自分で事業を起こしたい。そう考えたとき、今度は真っ先に製菓業が浮かび、アルバイトで貯めたお金で、大阪の辻󠄀製菓専門学校へ入学することにした。
「これもレストランでの経験の複利 (笑)。喜ばれて幸せを感じた記憶が、次のチャンスとして行動に移せたわけです。それでテレビやらでなじみのあった辻󠄀製菓に行くことにしたんです」
辻󠄀製菓専門学校時代
入学すると、これまでとは一転、勉強にのめり込んだ。実習も座学も、何もかもが楽しい1年間だったという。
「100点とったのなんて、中学校以来で(笑)。将来必要なことしかないし、欲しとったんでしょうね。公衆衛生学やら栄養学やらも全部楽しかったし、実際、役に立っとるもんね。それこそ自分でお金出しとるもんで、もとを取りたいって気持ちもありました。性にも合ってたと思う。何もないところから形をつくれるのとか、すべて自分でできるのも良かった気がします」
辻󠄀製菓専門学校時代

すべてが良かったパティスリーで何もかもやらせてもらえて、感謝しかない。

在学中はアルバイトにも力を入れる。働いていたのは当時、道頓堀にあった『ピアレス』というパティスリー。
「繁華街で夜も開いているお店で。僕が入ってた18時から22時まではシェフとマンツーマンだったんで、そこも良かった。仕込みも焼きも、その時間にやるものを全部見られて教えてもらえたし、学校と現場のやり方の違いも復習しながらお菓子がつくれたし。喫茶もあって、デセールもオーダーが入ったら僕がやらせてもらえて、勉強になりました」
週末には情報誌を頼りに、関西圏のパティスリーを片っ端から巡った。そのなかで最も惹かれたのが、神戸の『ダニエル』。その日のうちに働きたい意志を伝え、就職することになった。
「お菓子の形も味も包み方でさえも、ほかのお菓子屋さんと違ったように見えて、すべてが良かったんですよ。何もかもやらせてもらえて、ほんとシェフには感謝しかない。5~6人でやってた小さな店舗やったけど、高級住宅街にあって引っ切りなしにお客さんが見えて忙しく、ものすごく鍛えられました」
大学を出ている分、同期より4年遅れをとっている。先輩たちも歳下という環境。
「とにかく早く教えてほしいと焦ってたから、朝早くから夜遅くまで働くのもラッキーぐらいに思ってました。おかげで数もこなせたし、その後どれだけ忙しくても乗り越えられる力になったんやと思う。シェフは料理から来られた人。感覚でつくられることが多かったんですよ。学校でシビアな計量を学んだあとにシェフのセンスに触れられたおかげで、自分も繊細な表現のお菓子がつくれるようになったと思います」

わざわざ上がってきてもらうには、それだけ価値のある商品を用意すればいい。

目標は27歳での独立開業。実現するべく選んだ場所が、松阪市新町の1010番地だった。
「今ならもっとスキルやノウハウを身につけてからって言われそうやけど、『お店を経験したい』が先に立って。修業をした神戸や大阪で開業する選択肢もあったけど、父親との楽しかったイメージがあったこの場所に帰って来たわけです。今考えたらよう相手してくれたなぁ。学校から帰ってきたら『カブトムシ採りに行こう』て連れて行ってくれたり。その思い出があるから、店をやるならここしかないなと」
こうして1994年10月に開業。まだバームクーヘンの製造卸売を手がけていたものの、その数は減る一方だったこともあり、父も歓迎してくれたという。
「当時の松阪のお菓子屋さんは、缶詰のフルーツが挟んであるような、オーソドックスなケーキが多かったんで、フレッシュなフルーツをふんだんに使うお店のはしりでした。ただ、敷地の使い勝手から店舗を2階にしてしまって…。『ダニエル』のお菓子を勉強して帰ってきたら、じゃんじゃんお客さんが来ると思ってたのが甘かったんです」
オープンしたところで2階まで上がってきてくれるお客さんはそういない。売れ行きは相当、厳しかった。
「だから発想の転換で、わざわざ2階に上がってきてもらうには、上がってきてもらうだけの商品を用意すればいいって考えて、最初にやったのがミルフィーユ。賞味期限1時間を銘打ち、お客さんが見えたらつくって、今までに食べたのことないものが味わえますよと。まだSNSもなかったんで、はじめはクチコミ。1カ月後ぐらいにテレビの生放送で取り上げてもらったら、その瞬間に電話が鳴っとったもんね」

お金持ちや有名になるより、記憶に残る思い出をつくれるほうが幸せな人生。

その後もブランチやアフタヌーンティーなどを企画。今でこそ流行りのメニューも当時はまだ目新しく、毎週のように取材を受け、一躍人気店となった。
「お菓子って、お客様にもステージアップしてもらう商売。たとえば差し入れのシュークリームがおいしかったから、あの店でケーキも買ってみようかとなったら一段階、上がる。そこからバースデーケーキまで来ると、クリスマスやバレンタインなどのイベントにも使ってもらえるようになる。最終は、おみやげや進物。初めてのお店で進物なんて絶対に買わんやん。自分が口にしないお菓子が売れるようになると強いと思います」
そのためにも「各部署に名プレイヤーを置く」というのが小泉さんの考え方。お土産物の名プレイヤーとして誕生したのが、チョコレートケーキの「レアン」だ。
「うちの生菓子を遠方に住む家族にも食べさせたいというお声が多かったので、1年ぐらいかけて開発しました。エアを抱いた生チョコで、持ち運んでも冷蔵庫に入れてもらったら食感が生き返る。これも1年目やったらできなかったと思います。知識も経験も積み重ねるのが大事。やったことを一個ずつ積み重ねていくと、ある時点で、チョコレートも空気を抱く温度があるとわかってくる。これも複利。
チョコレートケーキ「レアン」
学校で学んだお菓子づくりは基礎の基礎やったかもしれんけど、それがあったからこそ今の僕があるんです」
お菓子づくりをしていても、記憶に残る思い出ができる。そこに仕事をする意味があると小泉さんは言う。
バースデーケーキ
「みんな何のために仕事をする? 僕は大学の頃、なんせ幸せになろうとは思とった。お金持ちになったら幸せか、有名なお店になったら幸せか。実際は違うでしょう。そうなっても、不幸になった人はいっぱいいる。それより記憶に残る思い出をつくれるほうが、だんぜん幸せな人生やと思う。苦労の末に生まれた看板商品をかわいがってもらえとる現象こそが、生きてる証にもなってるなと」
中山栗のモンブラン

あの店は常に何かやっていると感じてもらえるよう、変わり続けることが大事。

ある程度のスキルがついたなら、独立開業には早く挑戦したほうがいい。自身の経験を踏まえて、小泉さんはこう語る。
「もちろん自分自身、順風満帆だったわけやないけど、逆風が来ても若さで乗り越えていける部分って大きいんです。お店を持ってからも講習会に行ったり経営塾に入ったりと、スキルは走り出してからでも身につけていけますしね」
カヌレ
繁盛し始めて以降、営業は順調だったが、店舗を2階に設けたことに関しては、ずっと後悔が続いていた。
「乳飲み子のお母さんが、1階にベビーカーを置いて赤ちゃん抱いて上がってきてくれて…。車椅子の人がお見えになって、階段を上げたこともある。めちゃめちゃ重かったよ。でもその重さより、なんてことをしたのかっていうつらさのほうが大きかった。20年近くかかってはじめの借金を返し終えたとき、ようやく今の1階の店舗にできました」
苺のミルフィーユ
2012年にリニューアルオープンしてからは、ますます多くの人が気軽に集える場所になった。長年仕事を続けていくなかで決めたルールがある。それは1年に1つずつ、新しいことにチャレンジしようというもの。
ブルーベリーのサマーデザート
「どんなにおいしくても、そればかりだと飽きるでしょ。あの店は常に何かやっとるなと常連さんにも感じてもらえるように、変わり続けることが大事。だから、うちは商品数も多いよ。生菓子は休日なら50種類は並ぶし、焼き菓子も50~60種類ある。コンフィチュール、ジャムもやれば、ジンジャーエールの素もつくる。なんでも手がけていって、ついにはブリーベリーまで(笑)」
いつか自分の育てたフルーツでお菓子をつくりたい。そんな開業当初からの夢を叶えようと、5年前、50歳になる節目の年に挑戦した。
「いちごに挑戦してみたいとパティシエは誰しも思うでしょうが、世話が大変やし繁忙期に収穫することになるし、とてもやないけど無理。何かないかと探してたところ、500円玉ぐらいの大粒のブルーベリーを見つけて『これだ!』と」
「調べたら水耕栽培でできるし、今は農業も進化して水も溶液も自動でやれる。もし水が出なくなったら知らせてくれるシステムもあったし、これならできると挑戦したんやけど、実際は自然のもの。予想ほど収穫できない、虫で枯れる、落雷で水が止まる、台風で施設が壊れる…。失敗も多かった。でも『こんなに大きくておいしいブルーベリーは初めて!』って感動してもらえたら、それも複利やん(笑)」

幸せだと感じるパティシエの仕事を、携わっている人たちにも誇ってほしい。

今も毎週、休みの日には釣りへと出かけ、釣った魚をランチメニューに活かすこともある。バレンタインの時季には、ベトナムへ見に行ったカカオ園の話をお客さんに語り、思い出を共有していく。
「釣ったマグロをツナサンドにして、お客さんに振る舞ったこともあるんさ。そんなの忘れろったって忘れられんし、僕の旅行の話でさえもお客さんの思い出になったりする。それってほんとに意味があるでしょう」
「パティシエって、お菓子で表現できるアーティスト的な仕事でもあるし、すごく恵まれとる。僕自身この仕事で幸せやと感じてるんで、うちのスタッフだけやなく、お菓子に携わってる人みんなに誇れる仕事やと思ってほしいんです」
後進の育成にも力を入れ、専門学校などで指導にもあたっている。今いるスタッフの約8割は元教え子だという。働き方改革も早くから進め、スタッフを何より大事にしている。
「スタッフが毎年、僕の誕生日に色紙をつくってくれるんです。うれしいよね。お店が有名になったとか、お金が儲かったとかいうこと以上のことやと思ってます。一昨年辞めたスタッフも最後に、僕と働けて幸せやったと言うてくれて…。こんなうれしいことないですよ」
そう微笑みながらも涙ぐむ小泉さん。声を詰まらせながらも、こう続けてくれた。
「お店しとってさ、何が一番つらいと思う? 僕にとってはスタッフが辞めていくことなんさ。うちは絶対急に辞めることはなくて、ちゃんとみんな1年前2年前に伝えてくれる。それでも寂しいんです。前向きに別の店で勉強する場合でも寂しいのは寂しい。ましてや一緒に頑張ってくれた子らがさ、夢半ばで諦めていくようにはしたくない。それも経営者の責任やと思うとる」
お店は経営者の投影のようなもの。「自分がいい加減ならお店もいい加減になるし、古い考えならお店もどこか古くさくなる」のだと小泉さんは考える。
「だけど僕の店には、僕以上に『1010banchi』を思ってくれとる若いスタッフがたくさんいて、新風を吹き込んでくれる。至らんシェフを支えて毎日、お菓子と向き合い頑張ってくれとるからね。スタッフのなかから後継者が生まれる日が来れば、こんなうれしいことはないでしょう。そんな日が来ることを願って、今まで以上に素敵なお店にしていきたいですね」

小泉 直也さんの卒業校

辻󠄀製菓専門学校(現:辻󠄀調理師専門学校) launch

辻󠄀製菓専門学校
(現:辻󠄀調理師専門学校)

洋菓子・和菓子・パンを総合的に学ぶ

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