INTERVIEW
No.173

「懐石料理店の二代目」の道だって一つじゃない。海外での経験を重ね、世界を飛び回りつつ、国内外で日本料理の魅力を広める料理人に。

懐石料理 紀仙 店主 料理長

江口 直樹さん

profile.
東京都出身。浦和学院高等学校、拓殖大学を経て、エコール 辻󠄀󠄀 東京 の辻󠄀󠄀日本料理マスターカレッジに進学。2003年に卒業後、京都の日本料理店『祇園丸山』に就職。約3年間の修業を重ね、家業である東京・竹ノ塚の『懐石料理 紀仙』へ。2011年の東日本大震災を機に、在スロバキア日本国大使館の公邸料理人に就任。その後、モルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』の日本食レストラン料理長、東京・銀座の天ぷら店『銀座天春』の料理長を経て、家業を後継。コロナ禍を機に国内外で活躍中。
access_time 2024.03.22

海外の魅力に惹かれた大学時代を経て、家業の懐石料理店を継ぐことに。

東京・竹ノ塚で創業し、2024年11月に50周年を迎える『懐石料理 紀仙』。その二代目を継いだ江口直樹さんは、懐石料理店の店主でありながら、世界中を飛び回りグローバルに活躍する異色の料理人だ。
生まれは1979年。幼い頃からスポーツが得意で、軟式テニスを始めた中学時代には、足立区のトーナメントで優勝。3年次から硬式テニスに転向し、高校はスポーツクラスに進学した。
「全国レベルのチームに入ってしまったので、そう簡単にはレギュラーにもなれず、遠征メンバーに入るのが精いっぱいでした。プロになることは考えられず、将来の道はまだ保留にしていました」
一度きりの人生、せっかくなら学生生活を謳歌して、仲間をつくりたい。そう考えて大学に進学。クラブに入ってテニス漬けの毎日を送ったが、3年次に通うキャンパスが遠くなり、テニスクラブを辞めることに。このタイミングで友人と海外でスキューバダイビングのライセンスを取得することにした。
大学時代
「高校の修学旅行でハワイに行き、建物も食べ物も何もかもが違う、海外へ行く面白さに惹かれたんですよね。夏休みや春休みを活用し、タイで上級の資格まで取り、最終的にはオーストラリアでレスキューダイバーも取得。早めに単位をかなり取っていたため、日本にいる間はフランス料理店でのサービスや旅行代理店での接客などアルバイトに明け暮れ、5カ国21都市を周るヨーロッパ旅行も経験しました」
5カ国21都市を周るヨーロッパ旅行 ウイーンにて
アルバイト先の旅行代理店からはこのまま就職しないかと誘われた。しかし4歳上の兄がフランス料理の道に進み、家業をどうするかという問題に直面する。
「飲食と旅行、どちらの仕事もやりがいがあったので、じっくり考えてみたんです。幼い頃から厨房を見ていましたし、いろんなところへ食事にもよく連れられていましたし…。同期と一緒にスタートを切ったとき、味のことも食材のことも知っている料理人のほうが、アドバンテージが高いはずだと。また、海外へ行くたび和食は世界に通用するものだとも感じていたので、一生やっていくなら旅行代理店よりもこっちかなと思ったんです」
外来講師に来られていた京都『菊乃井』のご主人との記念写真と当時の資料

日本料理は、光や音、空気感も含めて総合的にできあがるものだと学んだ。

料理の道へ進むにあたり、基礎知識をつけてから現場に出たほうがいいと考えた。そこでかつて兄が通っていたエコール 辻󠄀󠄀 東京の辻󠄀󠄀日本料理マスターカレッジに進学。
「西洋料理を学んでいた兄から話を聴いていたので、ジャンルは違えど一択でした。第一線で活躍する有名シェフがわざわざ学校に来てくれ、自身のレシピを公開しながら目の前で調理してくれる授業があるというのが最も惹かれた点。実際に受講すると、1文字も取りこぼしたくないなと全部書き留めて。余すところなく吸収しようと、貪欲に学びました」
エコール 辻󠄀󠄀 東京時代の丁寧にとったノートは今も大切にしている
料理の土台となる部分もイチから学べ、同じ志を持つ仲間が増えたことも大きかった。1年間の課程を経て、卒業後は京都の日本料理店『祇園 丸山』に就職。
「よく食べ歩きに行く両親から、本当においしかったと聞いていたので、夏休みに訪問。料理だけでなく個室のつくりや調度品などすべてが素晴らしく、総合芸術ってこういうものなのかと感動しました」
『祇園 丸山』時代
ミシュランガイドで二つ星を獲得している京料理の名店。春の桜、秋の紅葉のシーズンは多忙を極めたため、働き始めの1週間が最も厳しかったと振り返る。
「後にも先にも、あの1週間以上に大変だったことはありません(苦笑)。おかげで以降のハードルも乗り越えられました。旦那さん(店主)が美術商や骨董店などへ行かれる際には運転手も務めたんですが、その間に旦那さんの哲学や美意識なども知れ、とても勉強になりました。料理屋は、料理だけじゃなく、光や音、空気感も含めて総合的にできあがるもの。時間とともに移ろう太陽の向きにも細やかに気を配る必要があるといった貴重なお話が聴け、本当に濃い3年でした。当時の経験が、今でも自分のベースになっています」

公邸料理人となったスロバキアで、日本料理の魅力を啓発する文化活動に尽力。

『祇園 丸山』では、次の修業先へと移る層が多い時期だったこともあり、早くから調理の経験が積めた。しかし丸3年が過ぎた頃、父の体調が悪化。その後、回復し現場復帰はできたものの、後を継ぐ準備のためにも2006年、実家に戻ることにした。
小学生の頃、お父さんと
「そこから5年間ぐらいは父と毎朝市場に行って一緒に買い出しをし、魚のさばき方なども教えてもらいました。だけど2011年3月の東日本大震災で会食が一気に減り、売上げが急落。もう外に出るしかないと考えたとき、学生のときに感じた海外の魅力と和食が結びついたんです。最も安心安全で自分のやりたいことができる仕事はと探して見つけたのが、公邸料理人でした」
在スロバキア日本国大使館の公邸料理人時代
大学時代に惹かれたヨーロッパを中心に応募し、在スロバキア日本国大使館の公邸料理人に就任。2013年までに2年間、大使(在外公館長)の毎日の食事に加え、公邸等での公的会食の料理を用意した。
「スロバキア大統領や秋篠宮両殿下の設宴も担当させていただき、本当に貴重な経験でした。スロバキアは海がなく制限があるなか、地産のものを組み込んで特色を出そうと、食材を半径50km圏内から探すことに。そのなかにウナギもあったんですが、現地ではブツ切りで焼いて、塩とレモンをかけるぐらいだったんです。もったいないなと蒲焼きにしたところ、現地の客人にも好評でうれしかったです」
さらに自ら文化行事を提案することもできたので、懐石料理のレクチャーを企画。和食がユネスコ無形文化遺産になる直前の頃だった。
「『日本料理を世界に広めたい』というと大げさですが、せっかく自分が行ったのなら、そこにいる人たちに知ってもらいたいなと。スロバキアの皆さんがまだ和食を全然ご存知ない状態だったので、反応がよくて面白かったです。旨味の講習をしても、昆布やカツオの味がわからないんですよ。だけど普段食べている鳥と野菜で出汁をとって掛け合わせたところ、旨味の広がりを感じとってもらえて。知らないからわからないだけで、しっかり伝えればわかってもらえるというのが、手応えのある発見でした」
モルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』時代

サステナブルをいち早く提唱していたホテルで、日本料理に創意工夫を凝らす。

任期を終える頃には、まだ海外で経験を積みたいと思っていた。エコール 辻󠄀󠄀 東京の恩師に話し、紹介されたのがモルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』だった。
「卒業後も先生方と交流を重ね、近況は報告し続けていたんですよね。ずっとつながっていたおかげで、いただけたお話です。2013年に和食が世界遺産に登録されたことを受け、もともとアジアンレストランだったところを日本食レストランにしたいというご相談があったのだそうです」
モルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』時代 生ごみにバクテリアを加えて堆肥にして野菜を育てていた
『ソネバ・フシ』は今でいうサステナブルをいち早く提唱していたホテル。それまでの考え方や価値観が大きく変わる経験をしたという。
「サンゴ礁の島で土もなかったんですが、毎回出る生ごみにバクテリアを加えて堆肥にして野菜を育てていたんです。川もないため、海水を水にする装置を使いつつ天然石で濾過していましたし。すべてが初めてのことばかりで楽しく、新たにシソの葉を育てたり、魚を卸しに来るフィッシャーマンには新鮮なまま渡してもらうためのレクチャーをしたりと、現地で手に入るもので日本料理をつくる工夫を凝らしました」
『RED U-35』でブロンズエッグを獲得
在職中の2014年には、35歳未満の料理人を対象とした日本のコンペティション『RED U-35』にも挑戦。ブロンズエッグを獲得する。
「従来のコンクールとは違い、新しい価値観を評価してもらえるものだったので、今海外にいて思うことを発信したら面白いんじゃないかとエントリーして。ビデオメールでSDGs的な発言も伝えていました。チャレンジしたおかげでその後、料理イベントなどさまざまな活動の機会を得られ、知り合った料理人たちとのコミュニケーションも密になっていきました」

さらに技術を磨くもコロナ禍に。しかし日本料理の世界的な需要を改めて実感。

レストランの基盤が固まり、任せられる状態になったところで帰国。東京・銀座でプレオープン中だった天ぷら店『銀座 天春』で、料理長のサポートにつくことになった。
「海外でも人気の高かった天ぷらの専門技術を高めれば武器にもなるだろうと。1年ほど経ったところで店舗を増やすことになり、料理長がタイへ行くことになったので、僕が本店の料理長に就任。2年間ほど店主としてやらせてもらいました」
インバウンドでの利用が多いだけでなく、プライベートジェットの機内食を担当するなど、海外とのつながりも大きい店だった。しかしコロナ禍となり、2回目の緊急事態宣言が発出された2021年、東京・本店は無期限休業を余儀なくされる。実家の経営も厳しい状況だったため、夏には延期となった東京オリンピック・パラリンピックで選手村料理人を担当した。
「これも一生に一度の機会だと思って経験しました。コロナ禍の間、実家では何もできなかったので、SNSに自分の活動をアップし、いろんな方々にダイレクトメッセージを送っていたんです。するとインバウンドのお客様から『あなたの天ぷらを食べたい』と言っていただけ、まだ需要があるんだなと実感。『飛行機の制限がなくなったら来てほしい』と言われ、マレーシアのお客様のもとを訪ねたのが始まりでした」
その際の様子をSNSに上げると、各国の富裕層から「うちでもできないか」と問い合わせが舞い込むようになっていった。
メキシコの鉄板焼きレストランオーナーのフランシスコ氏と

海外での出張料理を次々に展開。日本料理を提供するダイニングボート事業も。

ビジネスでの渡航は観光よりも先に緩和されていた。そのためメキシコからの相談者は、『懐石料理 紀仙』を訪ねてくれたという。
「カフェレストランを営むオーナーだったんですが、台をつくったから鉄板焼きをやってくれないかと。鉄板焼きは未経験だったんですけど、せっかくのオファーを断りたくない。懐石料理に活用する形でもいいかと訊ねたところ面白がってくださって」
メキシコの鉄板焼き店 鉄板を使って椀種を調理している様子
「普通なら炭で焼く魚や、デザートのどら焼きまで、鉄板焼きの台だけで調理をしたんですよ。それがお客様から好評を受け、この5月には3回目を実施する予定です。そんなのは懐石料理じゃないと言われそうですが、自分の中では、オファーしていただいた方に対し、どうすれば楽しんでもらえるというアンサーを出せるかが主の部分。まずはやってみようと、鉄板焼きのこともイチから勉強して臨みました」
セブ島で日本食レストラン『AKA by Naoki Eguchi]』の立ち上げ スタッフたちと
こうしてマレーシア、メキシコ、フィリピン、ジャカルタ、モルディブなどを訪問。フィリピンでは、セブ島のホテルに立ち上げる日本食レストランを監修。2024年3月末にオープン予定だ。一方、国内での活動も別立て進行。約2年間の準備を経て、2024年からクルーズ船をチャーターして日本料理を提供するダイニングボート『KISEN HANARE』をスタートさせた。
日本料理を提供するダイニングボート『KISEN HANARE』
「モルディブにいた頃、ホテルの船にダイニングをつくるプロジェクトが設計段階にあったんです。僕自身、大学時代に2級小型船舶免許も取得していたので、船で料理をやったら面白いなと考えたんですが、今から屋形船に参入するのは難しい。そこで水上タクシーの会社に連絡し、アテンド役としてアルバイトに入って社長さんに提案してみたところ、企画に乗ってくださったんです。いずれインバウンドは回復するだろうと見越してのことでしたが、海外の富裕層にターゲットを絞ったところ、順調に引き合いが来ています」
世界10か国の料理人を集めるイベントの会場、ノルウエ―の港町スタヴァンゲルのレストラン『ENSO』にてスタッフたちと

一生懸命、一つひとつの仕事に本気で臨めば、いずれ点と点がつながっていく。

コロナ禍中に種をまいていたことが一気に開花。実店舗やダイニングボートの仕事もあるため、海外からのオファーは1カ月に1カ所までと制限することにした。
ノルウエ―の港町スタヴァンゲルに世界各国から集まったシェフ達と ノルウェーの食材見学ツアーにて
「2月にはノルウェーの港町で世界10カ国の料理人を集めるイベントに参加。3月にはセブ島のレストランオープン、4月には香港でのイベント、5月にはメキシコと、先々の予定がどんどん決まっています。レストランのオープンやイベントの開催に先立ち、うちの店での指導も行ったんですが、日本料理を教わりに来たいという海外の方の需要も高いことがわかってきたので、店での体験型のツーリズムも進めていく予定です」
『紀仙』店内
「今の時代、SNSを通じて世界中と無限につながっていける。とくに食を介すると、つながるスピードも速い。このままどんどん増やしたいんですが、身体が一つしかないので、自分と同じような考えをもっている料理人と協力できればなとも考えています」
『紀仙』店内
日本料理の料理人だという基本の軸は変えず、何が今後できるのだろうかと模索したい。そのための“枝”を、今はどんどんつけていっている最中なのだという。
「海外の依頼主から言われるのは、料理人さんは『この材料がないとできない』と言われることが多かったということ。僕は制限の多いなかで調理をしてきた経験があるので、あるもののなかで自分の料理を表現するというスタンスなんです。それを良く思ってもらえているおかげで、世界が広がっていきました。日本料理は制限が多そうですが、もっと自由であっていいと思うんです」
苺の天ぷら
振り返ってみても、苦しかったのは1年目の1週間だけ。あとはもう自分が楽しもうという姿勢で臨み、楽しんできたことを料理に反映させているのだと江口さんは語る。
金目鯛の吸い物
「料理の世界をめざす皆さんは、料理人に対する固定観念があるかと思うんですが、それを払拭して何にでもなれるということを伝えたいです。一つのジャンル、一つの店舗で頑張り続ける道もありますが、入ってみたら違うということも充分にあり得ます。そこで挫折して、料理人自体を辞めてしまうのは本当にもったいない。一歩違うところへ行ったら、自分に合う可能性があるので、ジャンルレスになんでも挑戦してほしいです。どんなことでも一生懸命、一つひとつの仕事に本気で臨んでいけば、いずれ点と点がつながっていくもの。どこに行ってもやり直しは利きますし、世界にはいろんなところがありますからね」

江口 直樹さんの卒業校

エコール 辻󠄀 東京 日本料理マスターカレッジ  (現:辻󠄀調理師専門学校 東京) launch

エコール 辻󠄀 東京
辻󠄀日本料理マスターカレッジ
(現:辻󠄀調理師専門学校 東京)

日本料理の奥深さに触れながら、
1年間で徹底的に本物の技術を学びとる。

1年間、日本料理だけを徹底的に。本物と一流にこだわった環境で、
日本料理の奥深さやおもてなしの心を会得する。
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