No.089
大学時代に料理の面白さに目覚め、進路を変更。料理の腕で南極へ行く夢に出会って抱いた、「どんな経験も糧になる」という思い。
第49次・第58次南極地域観測隊 調理担当 旭タンカー株式会社 司厨手
青堀力さん
profile.
鹿児島県出身。福岡にある大学の経済学部へ進学後、大阪の辻󠄀調理師専門学校へ。1999年に卒業後、福岡のイタリア料理店に就職。大分のイタリア料理店を経て、結婚式場に転職し、フランス料理を学ぶ。2007年、第49次南極地域観測隊・越冬隊の調理担当に選ばれ、11月より約1年4カ月間、南極へ。帰国後は割烹料理店で日本料理を学び、2009年、在ラトビア日本大使館公邸料理人に。2011年から約5年間、長野県にあるリゾートホテルに料理長として勤務。2016年、第58次南極地域観測隊・越冬隊に選ばれ、2018年3月まで調理担当を務める。5月、日本海洋事業株式会社の司厨手となり、現在は旭タンカー株式会社に所属する。
access_time 2019.04.19
上位の高校に行けば、やれることの選択肢が広がると思っていた。
イタリア料理店、フランス料理を提供する結婚式場、割烹店、大型リゾートホテル、さらには南極地域観測隊、ラトビア日本大使館、海洋調査船と、実に多彩な舞台で料理を手がけてきた青堀力さん。料理人になるべくしてなったような活躍ぶりだが、少年時代に確かな夢を描いていたわけではなかった。
「父親が転勤族だったんですよ。奄美大島で生まれ、長く過ごしたのは福岡なんですが、小学校の途中で引っ越した沖縄で遊びすぎちゃって…(苦笑)。中学3年を前に福岡へ戻り、定期試験を受けたところ、先生から『受かる高校がないぞ』と言われ、とにかく必死に勉強しました」
その結果、県内屈指の進学校に合格。しかし大学のことまでは考えていなかったという。
「上位の高校に行けば行くほど、やれることの選択肢が広がると思っていたんですよね。だけど詰め込んだ勉強だったからか、なんか高校の授業に乗っかっていけなかったんです…」
「料理人をめざすのは、大学に入ってからでも遅くはない」
やがて高校3年になり、進路に迷うこととなる。そのなかで浮かんだのが、料理の道だった。
「小さいときから食べることが大好きだったんですよ。台所にばかりいて、母親が料理する姿をよく見ていました。小学6年生ぐらいから、自分が食べたいものを母親に習ってつくるように。好物だったササミのフライとか、覚えれば簡単でしょ。食べておいしいのはもちろん、正しくつくればちゃんと形になるのも楽しかったんです」
南極での流しそうめん
とはいえ、沖縄で見た戦闘機に惹かれ、「パイロットになりたい」と夢見たことも…。料理人は、幼少期に憧れた仕事の一つに過ぎなかった。
「だからいざ将来と向き合ってみると、本当になりたいかどうか自分でもわからなかったんです。それを担任の先生も見抜いていたんでしょう。『料理人をめざすのは、大学に入ってからでも遅くはない。考える時間をつくる意味でも、進学したほうがいいんじゃないか』と言われ、大学をめざすことにしたんです」
しらせとペンギン
1年間の浪人生活を経て、地元の大学に合格。高校時代、政治経済が専門だった先生の授業が面白かったという理由で、経済学部を選んだ。しかし入学後に始めた飲食店でのアルバイトが、運命を変える。
大学を中退し、調理師学校へ進学。後れをとったことで焦っていた。
「バイト先が天ぷら屋さんだったんですよね。仕込みから手伝わせてもらえるのが面白くて、バイトばかりしていました。野菜を切るなど単純な作業だったんですが、やればやるほど、うまくなっていくのが楽しくて…。1年が経った頃には、『やはり料理の道へ進もう』と決めました」
2年次の夏休みには、大阪にある辻󠄀調理師専門学校の体験入学に参加し、再進学を決意。アルバイト先と住居を紹介してもらえる制度が整っていたことが、志望の決め手となった。
学生時代
「大学の学費を親に出してもらっていた手前、専門学校の分まで出してくれとは言いづらかったんでね。アルバイト先の種類が多かったのも魅力でした」
こうして大学を中退し、翌年度の4月から新たな道を歩み出す。当時はとにかく焦っていたのだという。
「高校卒業と同時に入学した人たちは、すでに働き始めているんだと考えると、ものすごく後れをとってしまったような気がして…。ただ、大人になって思ったのは、大学も卒業してから行けば良かったなと。振り返ってみると、どんな経験も人生の糧になっている。料理とは関係のない体験も、後に生きてきています」
イタリア料理からフランス料理へ。知らない技術を身につけたかった。
毎日の積み重ねによって、自分の技能が上がっていくのが面白い。専門学校で感じた料理の魅力も、やはりそこだった。アルバイト先は家族経営の焼き肉店。アットホームな雰囲気のなか楽しく働けた。入学の時点ではまだ進路を決めていなかったが、3カ月ほど経った頃には「イタリア料理の道へ進もう」と決意していた。
「当時、イタリアンが流行っていたんですよね。メディアで取り上げられるカリスマ料理人たちがかっこ良く見えて…。卒業後は地元福岡のイタリア料理店に就職。厳しかったですが、今思えば楽しい修業時代でした。できることが一つずつ増えていくのが面白かったんですよね」
王道のイタリア料理レストランから大衆向けのトラットリア、洋食店や居酒屋風など、同グループの多様な店舗に勤務。イタリア発のあらゆる料理を手がけた。4年ほど経ち、独立する先輩に誘われ大分県へ。新店舗で二番手として活躍した。
「当時は料理の奥深さが把握できていなくて、自分は何でもできると天狗になっていました(苦笑)。だけどあるとき専門誌で目にしたフランス料理についての記事を見て、全然わかっていない自分に気づき、学びたいと思ったんです」
料理人なら南極でだって仕事ができる。その言葉が運命を変えた。
福岡に戻り、フランス料理を提供する結婚式場に就職。結婚式なら数をこなせる分、早く覚えられると考えたからだ。仕事は相当厳しかった。
「最初は今までやってきたことを全否定され、精神的にもきつかったですが、ここで頑張らないと料理人として喰っていけない。イタリア料理とフランス料理、両方の技を身につけて店を開きたいという気持ちが当時はありました」
しかし入社早々、再び運命を変える出来事が起こる。大量の仕込みをしている最中、先輩が放った何気ない一言がそれだった。
「南極地域観測隊の料理人の話をされたんですよね。『南極でだって仕事ができるんだぞ』と聞き、すぐさま『絶対に行きたい』と強く思いました。料理人という仕事を通じて、極地で国家事業に参加できるなんてすごいなと。引っ越しが多かったこともあり、知らない土地へ行くのが好きでしたし、今の仕事を自分で回せるようになったら必ず挑戦しようと決めたんです」
南極観測船「しらせ」から昭和基地を望む
「結婚式場での勤務で、フランス料理の技術は短期間で身につきました。目標を明確に持っていましたので、集中して早期に技術を自分のものにしようと緊張感高く取り組んだのと、福岡市、北九州市、福山市、広島市、金沢市、横浜市、宇都宮市と、数カ月単位で各会場を回り、それぞれのシェフからさまざまな手法を学べ、視野が広がったことも大きかったですね」
やがてすべての仕事をこなせるように。機は熟した。
料理はすごい。おいしければ会話が弾み、チームの団結力も上がる。
南極地域観測隊の調理担当は狭き門だ。しかし2度目の挑戦で、2007年11月に出発し2009年3月に帰還する第49次の越冬隊に選ばれた。経験者の先輩とペアになり、出発の4カ月ほど前から準備をスタート。29名の隊員に向けた食材を、1人あたり1トン以上も用意する。自分が使う材料を考え、先輩に相談し、業者に発注するのも大変な作業だった。
氷上輸送
「そばを打ちたいと思っても、そば粉がなければ打てません。観測隊の仕事は準備が80%と言われるぐらい、材料集めが重要になってくるんです」
隊員の出身地や好みを調べ、郷土料理や誕生日のサプライズ料理なども考える。隊員たちが料理にとても期待を寄せていることがよくわかった。
「事前に行われた冬山での訓練で、『今年の目玉は何?』と言われたんですよね。毎回何かしらあることをそのとき知って、悩んだ挙げ句、得意だったピザを提案したところ、『みんなで窯をつくってやったら面白いのでは』と、ものすごく盛り上がったんですよ。だからもう後には引けなくなって(笑)」
昭和基地のピザ窯
極地のエキスパートたちが、各専門分野から知恵を出し合い、実現の運びとなる。耐熱煉瓦でピザ窯を組み立て、2時間前から火をくべるなど苦戦したものの、結果、大成功となった。
「南極では娯楽を自分たちでつくりだすもの。最高の思い出になりました。やっぱり食事ってすごいんですよね。おいしいと会話が弾みますし、チームの団結力が上がるんですよ。過酷な現場だからこそ、食事が日々の楽しみになっていることもひしひしと感じ、改めて料理人としての責任感や喜びを覚えました」
記念すべき最初の一枚
今度は自分の力で成功させたい。南極に向けて、新たな目標ができた。
「隊員の人数が限られているので、調理以外の作業にも積極的に取り組みました。これがまた、楽しいんです。それぞれの職域のプロとの共同作業は、南極での生活を豊かにしてくれました。印象深かったのは、土木の専門家の方と一緒に道をつくったんですよね。ベテランの職人さんでなぜか僕をかわいがってくれ、弟子のようにこき使われたんですが(笑)、それが嬉しくて…。僕の失敗のせいで曲がった部分ができてしまったんですが、『お前のせいでああなったんだぞ』ってわざとそのままにされ(苦笑)、料理と違いずっと残り続けるこの仕事もすごいなって感じました」
氷山やオーロラなどの大自然にも感動したが、何よりの魅力は人とのつながりだった。1年4カ月もの間、寝食をともにした隊員たちとは家族のように親密な関係になり、今でも付き合いが続いているという。
南極観測船「しらせ」着艦
「別の職種の、しかもプロフェッショナルな人たちと話したり、仕事を習ったりするのが楽しすぎて、考え方がまるっきり変わりました。以前は頑固な性格で、『料理とはかくあるべき』なんて考えにとらわれていたんですが、料理がみんなの楽しみとなり、思い出となり、絆となることがわかり、扉が開けたというか…。どんなことでも柔軟に楽しめるようになりました」
ブリザード
もう一度、人とふれあい、貴重な体験をしたい。今度は自分が中心となって越冬を成功させたい。南極生活を終える頃には、そんな新たな目標ができていた。
「食材の準備不足や使用するペース配分など心残りも多かったので、もう一度勉強し直そうと考え、その後のキャリアを重ねましたが、人脈が広がったおかげで開けた道も多かったです。何より価値観が変わりましたからね。やはり無駄な経験なんて一つもないと感じています」
南極、船上…料理の腕で冒険へ #02へ続く
辻󠄀調理師専門学校
西洋・日本・中国料理を総合的に学ぶ
食の仕事にたずさわるさまざまな「食業人」を目指す専門学校。1年制、2年制の学科に加え、2016年からはより学びを深める3年制学科がスタート。世界各国の料理にふれ、味わいながら、自分の可能と目指す方向を見極める。
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食から拡がる様々な業界で働く