No.116
地元九州の食材に刺激され、常に湧き出る創作のアイデア。白紙の状態で一流の技術を学べたからこそ、前衛的な独自路線を追求できた。
オーグードゥジュール メルヴェイユ 博多 シェフ
小岸 明寛さん
profile.
佐賀県出身。佐賀県立鹿島高等学校を卒業後、大阪の辻󠄀調理師専門学校に進学。辻󠄀調理技術研究所を経て、辻󠄀調グループのフランス校へ。2000年に卒業後、東京・恵比寿の『シャトーレストラン タイユヴァン・ロブション』に就職。約4年間の修業を経て渡仏。パリの三つ星店『アランデュカス・オ・プラザ・アテネ』や『ピエール・ガニェール』に勤務するかたわら、休暇中にはスペインやモナコ、ニューヨークやスイスでも研修。念願だったフランス中南部『ミシェル・ブラス』での研修も果たす。帰国後、2005年の『ピエール・ガニェール・ア・東京』開業に尽力。2007年に北海道洞爺湖町の『ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン』で働き、2015年から福岡のフランス料理店『オーグードゥジュール メルヴェイユ 博多』でシェフを務める。
access_time 2020.06.26
食べたことのない料理づくりに挑戦。未知の世界に強く惹かれていた。
佐賀県の南端、海と山に囲まれた太良町に生まれ、自然と戯れて育った少年時代。両親が共働きだったことから始めた料理が好きになり、中学生の頃には料理人を志すようになっていた。
高校に入ってからも、料理熱は高まる一方。料理を扱うバラエティ番組にのめり込み、食べたことのないフランス料理やイタリア料理を自宅でつくろうとチャレンジしていた。
「まだ地元で料理用のハーブも売っていなかったんですよね。だから園芸店に行って、バジルやローリエ、タイムなんかの種を買ってきて育て、料理に使うんですが、なんせ食べたことがないので、正解がわからない(笑)。ただ、使ってみたらどうなるのか、未知のものにものすごく興味がありました」
憧れの先生たちから貪欲に吸収。運命の経験でフランス料理へと転向。
「高校での勉強もしっかりしたうえで、専門学校へ進学するということを目指したので、テストも頑張り、成績はオール5に近かったです。先生には推薦状を書くからと大学を勧められたものの、まったく揺らぎませんでした。全国から調理師学校の資料を取り寄せましたが、自分にとってもここが最高だと感じて辻󠄀調へ。反対していた両親にも、最終的には熱意が通じました」
和洋中のすべてを学びたかったため、辻󠄀調グループのなかでも大阪の辻󠄀調理師専門学校を選択。すべての授業を最前列の中央で受講し、技術の習得にも熱心に励んだ。
「放課後もよく居残って、練習していました。自分で卵を1ケース頼んで、ひたすらオムレツをつくったり。高い学費を払っている分、身につけられることは全部身につけようと(笑)、先生方にお願いしては教わっていました」
まさにイタリア料理ブームが訪れていた1999年当時。名店『ポンテベッキオ』でのアルバイトは厳しくも面白く、この道に進もうと、より深く学べる辻󠄀調理技術研究所へ進学することに。
「イタリア料理の永作(達宗)先生は、僕たちにとって神様でしたよ(笑)。野菜のリゾットなんて、同じ材料と分量でつくっているのに、まったく違うものができあがる。ささっとつくられたものが、シンプルだけどめちゃめちゃおいしいんです。『こんなふうになりたい』と心から尊敬していました」
運命を変えたのは、秋頃に参加したヨーロッパへの研修旅行。イタリアからフランスへと周る旅の間に、フランス料理に心を奪われた。
「『ピック』や『ポール・ボキューズ』に行ったらもう、フランス料理やろうと思いますよ(笑)。本場のイタリア料理ももちろんおいしかったんですが、フランス料理の三つ星店はアプローチから別世界。最初から最後まで感動的なうえ、その調理姿にも憧れていたフランス料理の宮本(滋)先生に教えてもらいながら食べるので、感動も桁違い。すぐさま(辻󠄀調グループ)フランス校への留学を心に決めました」
フランス校時代
すべての三つ星店を食べ歩いたフランス留学。現場研修も圧巻だった。
その後も懸命に学び、優秀者に付与される奨学金を得て翌年4月から渡仏。実技を最初に行う1班の班長に任命され、レストラン形式の実習にも必死に食らいついた。
「フランス料理漬けの半年間で、精神力も体力も大いに鍛えられました。班長だったので、とりわけ怒られましたが(笑)、学生同士は一致団結して立ち向かうので、めちゃくちゃ仲が良くなり、今も支えになっています」
休日には友人たちと食べ歩き三昧。フランス中の三つ星レストランはすべて回った。
『オーグードゥジュール メルヴェイユ 博多』で開催されたフランス校の同窓会 博多開催にもかかわらず60人中15人が集まった
「最も衝撃を受けたのが『ミシェル・ブラス』でした。リヨンからバスで5時間もかけ、山道を超えて到着すると、宇宙船みたいなレストランで…。食べたことのない味、味わったことのない火入れ、見たこともない盛り付けばかりだったんですが、なかでも一番鳥肌の立った料理がガルグイユ。野草や野菜をふんだんに使ったスペシャリテ(看板メニュー)に、『なんだこれは!?』と。あまりの斬新さに、『自分たちにはまだ早い』なんて言い合っていましたが、いずれは学びたいと考えていました」
フランス校時代 ポール・ボキューズ氏と
およそ半年後から始まる実地研修では、希望どおり三つ星の『ラムロワーズ』へ。前菜やデザートを担当させてもらえるよう自ら申し出て、そのポジションを獲得した。
「60~80人前の料理を一気に出して一気に片づけるパワーやスピード感に圧倒されつつ、勉強になりました。休みの日には厨房でレシピを写させてもらえるなど、とても有意義な研修でした」
フランス校時代 仲間たちと食べ歩き
日本最高峰のレストランで基礎を固め、フランス三つ星店での修業へ。
2月の帰国時にはそのまま東京へ降り立ち、友人宅を転々としながら就職活動。フランス料理界の巨匠、ジョエル・ロブション氏がプロデュースした恵比寿のシャトーレストラン『タイユヴァン・ロブション』で翌月から働けることとなった。
フランス校時代 同級生たちと
「やはり狙うは日本のトップ。帰国したらここで働くことしか考えていませんでした。当時、1階の料理長だった
渡辺雄一郎シェフから、社会人としての基礎も教われてありがたかったです。新人はスタッフ80人分のまかないを一人でつくるんですけど、和洋中を学んでいた経験が役立ちましたね」
空きが出たことで、より高級な2階へと移り、肉の火入れを担当することに。入社わずか半年で異例のことだった。
『タイユバン・ロブション』時代
「留学中、ハトなどをさばく経験も積めていたおかげで対応できました。ロブションのスタッフは皆、とにかく仕事が早い。まずここで鍛えられて良かったです」
約4年間で一通りの持ち場を経験して渡仏。ワーキング・ホリデー制度を活用し、約1年間の現地修業に全力を注いだ。
『ピエール・ガニェール』時代 ガニェール氏と
「一番行きたかったパリの『アランデュカス・オ・プラザ・アテネ』には、直接交渉をして採用されました。ロブションは現代風でしたが、それとはまた違う、まさにパラス(最高級ホテル)の料理といった豪華さに感動しましたが、一方で三つ星の厳しさも痛感。20名以上の料理人たちが各々ライバルで、少しでもできなければ容赦なく解雇される環境でした」
半年の期間を満了し、その後は前衛的な料理で知られる『ピエール・ガニェール』に就職。休暇中には、スペインやモナコ、スイスやニューヨークの一流レストランでも研修を積んだ。
ピエール・ガニェール氏(左)、三ッ星のメゾン ド ブリクールのオリビエ ロランジェ シェフ(中央)とミシェルブラス本店時代、ブラスの映画撮影時の写真
「デュカスとは一転、ガニェールは厨房みんなの仲が良く、とても楽しかったです。『ミシェル・ブラス』と同じくアーティスティックなんですが、自分はこういった独自路線が好きなのだと再認識できました。最後はどうしても行きたかったブラスにも直談判。ガニェールのバカンス中に、ようやく願いが叶いました」
『ミシェル・ブラス』時代
天才シェフからマンツーマンで学び、指針となった“自然のままに”。
今まで学んできたことを覆すかのようなレシピ。『ミシェル・ブラス』は、やはり異世界だったと振り返る。
「ガニェールはクラシックな部分が土台にありましたが、ブラスは本当に独学。『この材料がここにくるのか!』といった驚きの連続でした。何も知らずに行っていたら、ただ驚きだけで終わっていたでしょう。基礎がわかっていたおかげで応用として理解し、吸収できたんだと思います」
ミシェル・ブラス氏と 毎朝訪れていた自宅前のハーブ畑で
出勤前には、毎朝ブラスシェフのもとへ。自宅前のハーブ畑で食材を摘み、朝食をともにし、多くの教えを受けた。
「とても可愛がってもらえて。市場にも連れて行ってもらい、食材選びから何からマンツーマンで教わりました。学んだのは、“自然のままに”。自然に敬意をもって料理をすることが、今のベースになっています」
帰国後は『ピエール・ガニェール・ア・東京』の立ち上げをサポート。北海道洞爺湖町の『ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン』で働くことを次の目標にしていたところ、「北海道洞爺湖サミット」を翌年に控えた2007年、その機会を得た。
『ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン』時代 洞爺湖サミットにてミシェル・ブラス氏(左)と
「サミットでは朝昼夜とすべての食事を担うことになり大変でしたが、貴重な経験ができました。トーヤでもハーブや野菜を育てるところから始めるんですよ。朝6時過ぎから山に入り、野草を摘んでから出勤。幼少期、野山が遊び場だったので、自然の美しさを活かす料理がルーツとも結びついたように感じます」
2013年には、35歳未満の料理人を対象とした日本最大級の料理人コンペティション『RED U-35』に出場。コンテストへの挑戦は初めてだったが、見事、準グランプリを獲得した。
『RED U-35』で準グランプリを獲得
「土地柄、ほかの料理人たちとの交流がなくて…。長く自然とともに生きているけど、この道で本当に合っているのか、自分自身に力がついているのか、腕試しのつもりで参加したんですが、間違っていなかったと確認できました。和洋中、ジャンルを超え、同世代の料理人たちと仲良くなれたのも大きな財産。地元の食材を違うジャンルならどう使うか、今も参考にさせてもらえる関係が築けました」
食材の宝庫である地元九州に移り、生産者と近いところで表現したい。
「あの食材でもう1シーズン試してみたい」「ブラスシェフがどう扱うか見てみたい」といった願望が続いた結果、『ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン』での7年半があっという間に過ぎた。そして2014年、地元九州へ戻り、福岡は『オーグードゥジュール メルヴェイユ 博多』へ。引き継ぎを経てシェフに就任した。
「ゆくゆくは地元で、地域と一緒に歩んでいきたい。そんな想いがずっとありました。食材の宝庫である九州に腰を据えて、生産者と近いところで表現したかったんですよね」
故郷の太良町で自ら開発を手がけた生ハム
スペシャリテの「九州の大地」には、故郷の太良町で自ら開発を手がけた生ハムに加え、九州産の野菜やハーブ、野草や花など、一皿に120種以上の食材を使用。9時間かけて、一人で仕込んでいる。
「衝撃を受けたガルグイユへのオマージュです。いつか九州でつくってやるぞという思いを実現させました。まだ堅いから小さく切ろうとか、熟してきたから塊で使ってよく火を入れようとか、食材を見て判断するので時間がかかります。同じ料理ですが、切り方、火入れの仕方が毎回違ってくる。だから飽きないんですよ」
スペシャリテの「九州の大地」 衝撃を受けたガルグイユへのオマージュ
油絵が好きで描き続けている。自らデザインし、有田焼や肥前吉田焼など故郷佐賀県の窯元でつくった器に料理を盛りつけるメニューも多い。お店には毎日のように生産者から食材が届けられ、創作欲が刺激され続けているという。
自身が描き続ける油絵
「『面白い魚が獲れたから使うでしょ?』なんて、挑戦状みたいにやって来るんですよ(笑)。おかげで新しい料理が次々に浮かんで、追いつかない。シェフが食材からインスピレーションを受け、次々に料理を生みだすところを真横で見てきましたから、アイデアが尽きるなんて想像できません。ブラスシェフが以前、『この場の音調はそのときの食材が奏でる』と言っていたんですが、まさにそうだなと実感しています」
自らデザインした有田焼や肥前吉田焼の器
好きな仕事をしたほうが、伸びやすくやりがいがあり、何より楽しい。
「若い頃、まだ白紙の上に一流の技術を身につけていくのが一番早いと思うんですよね。頑丈な土台を築いておけば、より高いところまで登っていける。三つ星ばかり志していたのも、そういう理由からです。最初の段階で、良い食材を使って確かな技術を磨けたことが、今につながっています」
「世界料理学会 in ARITA」に参加
2016年には、地元佐賀県で行われた『世界料理学会 in ARITA』に参加し、美しく見える黄金比や自然界に多く見られる曲線を意識した食材の並べ方について、“器と料理のマリアージュ”をテーマにスピーチを行った。
『ななつ星 in 九州』でスペシャルディナーを提供
さらにはJRのクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」でスペシャルディナーを提供するなど、レストランの枠を超えた舞台でも活躍を続けている。
故郷太良町の企画で、小中学校の給食づくり
「故郷太良町の企画で、小中学校の給食づくりも行ったんですよ。佐賀牛の赤ワイン煮込みなど、太良産の食材を使ったフランス料理を800人前振る舞いました。地元へも貢献できているので、両親も喜んでくれています」
5年ぶりの発行となった『ミシュランガイド福岡・佐賀・長崎 2019 特別版』では、フランス料理店で稀少な一つ星を獲得。2020年はコロナ禍により休業を余儀なくされていたが、再開後はお祝い事の予約が押し寄せた。
フランス校時代にポール・ボキューズ氏にサインしてもらったミシュランガイド
「誕生日や結婚記念日、進学や就職などを改めて祝おうと待ってくださっていたようで、うれしかったですね。お客様も生産者も自分もハッピーになれる、こんな素晴らしい職業はありませんよ。目標は三つ星です。九州でとれたらかっこいいなと」
かつてRED U-35参加時に「調理師を辞めるときは死ぬときだ」と語っていた小岸さん。今もそう思うかと訊ねたところ、「そんなかっこいいこと言っていましたか」と照れながら、こう答えてくれた。
生産者から挑戦状のように突然送られてきた「白ナス」を料理する
「今も学び続けていますし、死ぬまでつくり続けるんじゃないですかね。ブラスシェフが以前、『好きなこととビジネスが同じ方向にある』と言っていたんですが、好きなことを職業にしたほうが伸びるでしょうし、やりがいもあるし、何より楽しい。ゼロからイチをつくるのは大変なことですが、生みだせたときの快感は何物にも代えがたいですよ」
調理場のスタッフたちと (左は田中悠雅さん2019年辻󠄀調グループフランス校卒)
辻󠄀調グループ フランス校
本場でしか学べないことがきっとある
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フランス料理とヨーロッパ菓子を学ぶための最新設備がずらり。
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