INTERVIEW
No.077

フランス料理に惹かれ料理人となり、約20年で独立。自分と同じ信州出身の料理人が海外で活躍する姿を伝えようと、取材・書籍化を決意。

フォトグラファー・ライター・フランス料理人

大友秀俊さん

profile.
長野県松本市出身。辻󠄀調理師専門学校から辻󠄀調グループ フランス校へ。1994年に卒業後、長野県内のリゾート地にあるホテルに勤務。24歳で鉄板焼きレストランのシェフとなる。2005年、星野リゾートに転職し、軽井沢ホテルブレストンコートに勤務。北海道の現・星野リゾート トマムの再生プロジェクトにも携わる。同社でフランス料理のスーパーバイザーや披露宴会場シェフなど、さまざまな経験を重ね、2016年に独立。2017年末には取材・撮影・執筆を一人で担った自身初の著作となる『信州の料理人、海を渡る。』を出版し、「グルマン世界料理本大賞」ローカル部門のグランプリを受賞。現在は、フォトグラファー、ライター、フランス料理人など、食に関わる様々な活動をしている。
access_time 2018.11.09

原点は中学時代の学級新聞。昔から人を喜ばせることが好きだった。

長野県松本市、浅間温泉にある老舗旅館「小柳」。その再生プロジェクトの取材を進めているのが、同市出身の大友秀俊さんだ。“信州から撮って、書いて、発信もするフランス料理人”…そんな唯一無二の肩書きをもつ。生まれたのは第二次ベビーブームの1973年。今につながる原点は中学時代にあるという。
将来は報道の世界に進みたいという思いもあったが、もう一方で興味のあった料理人への道を選択する。
「学級新聞もそうでしたが、人を喜ばせることが好きだったから、料理に惹かれていたんです。祖父も料理人だったから、そのDNAもあるのかもしれませんね。家が裕福ではなかったので、手に職をつければ食べていけるという思いもありました」

憧れたフランス料理人の姿。当時から人間性を通して料理を見ていた。

やるからには、しっかりと学びたい。そう考え、当時あった大阪行きの夜行列車に乗り、辻󠄀調理師専門学校の体験入学に参加。志望が固まり、「アルバイトで工面するから」と両親を説得して入学に至った。
「大阪の街や大阪人の生き方に、大きな影響を受けました。信州人って山国育ちだからか、真面目で理屈っぽい(笑)。よく言えば堅実なんですけどね。一方、大阪の人は、良くないことでもプラスに置き換える柔軟さがある。実は高校でちょっと人間不信になりかけていたんですが、大阪で回復させてもらいました」
入学当初は中国料理の道に進もうかと考えていた。だが夏休み明け、当時、三重県・志摩観光ホテルの総料理長だった高橋忠之シェフの特別授業を受け、意志が変わる。
「地元の海の幸を活かしたフランス料理を提供し、世界中から地方へお客様を呼んだローカルガストロノミーの先駆者であるシェフだったんですが、人としての魅力が素晴らしかったんです。『技術はもちろん、一人の人間として人間性も磨いて、礼儀正しく生きていかないとだめだ』と説かれたことに心を打たれました」
その姿勢が、辻󠄀調グループの創設者であり、フランス料理を日本に伝えた辻󠄀静雄前校長の教えとリンクし、フランス料理への憧れを決定づけたという。
「自分たちが静雄先生最後の卒業生になったんですが、先生自身もそういう考えの方だったんですよ。入学式で伺った『人にしてあげた親切はその場で忘れなさい。人にしてもらった親切はどんなに小さなことであっても覚えていて恩義を感じ、いつか恩返しをするという気持ちを忘れずに生きていく』という言葉は、今も大切に守っています。当時から自分は、人間性を通して料理を見ていたんでしょうね」

濃密なフランス留学で、一流のシェフは人間性も一流だと知った。

卒業後はフランス校に進学したい。そう考えて実家に戻り、松本市内ホテルの宴会場で半年間のアルバイトに没頭。学費を貯め、10月出発の秋コースで留学をかなえた。
フランス校時代
「だけどフランス語にもついていけず、不器用でテストの点数も悪くて…気がつけば最劣等生をキープ(苦笑)。現地のコアール先生にしょっちゅう叱られていました。でも同じ屋根の下で仲間と暮らし、みんなで困難を乗り越えた経験は大きい。技術が学べたのはもちろん、喜怒哀楽をともにしながら共同で何かをやり遂げることこそが、人間本来の生き方だと学べた気がします」
フランス校での学びの集大成『ムニュ・スぺシオ』にて
現地でふれあうフランス人たちは大らかで自由だった。大阪とフランス、2つの場所で生活していなければ、暗くて下を向いた人間で終わっていたかもしれない。そう思えるほど、人生のターニングポイントになったという。しかし、つらい出来事もあった。
フランス校卒業式
「当時は研修先となるレストランの数も多くなく、希望者全員が行けるわけじゃなくて…。選ばれなかったことが悔しくて悔しくて、後にも先にあれほど泣いたことはありません。だけどあるとき、コアール先生が自分の両肩にボン!と力強く手を置いて、『君は日本に帰るけど、日本でやっていけるから大丈夫だ』といった言葉で励ましてくださり…おかげで気持ちを切り替えられました」
帰国までの数週間。残りの貯金はすべて食べ歩きに使ったという。
「何か吸収して帰ろうと、リヨン郊外の星付きレストランは、ほぼ制覇しました。行ったお店で写真を撮って、その沿革や印象記をノートに記したんですが…それでは満足できず、帰国後にすべてワープロで打ち直し、写真集のように仕立てて。これも今のベースになっていますね」
「食べ歩きでの一番の発見は、一流のシェフは人間性も一流だということ。日本人の若造が来ても、一人のお客様として尊重し、もてなしてくれる。やはり人間は謙虚に生きていくべきだという、自身の基盤が固まりました」 
 
フランスでの『食べ歩記』 ポールボキューズにて

一人でも壁をつくるスタッフがいれば、いいレストランはできない。

1994年3月に帰国し、長野県内のリゾート地にあるホテルに勤務。だが食堂部門でラーメンやカレーなどをつくる日々が続く。その後、ようやくフレンチ部門へ配属になったのも束の間、「鉄板焼きをやってみないか」と声をかけられる。
鉄板焼シェフ時代
「お客様の目の前で調理をしながらサービスもするような仕事です。こんな武骨で口下手な自分には無理だと断ろうとしたんですが、それを改善するチャンスにもなると言われ、挑戦することにしました。最初は先輩の横について2人で担当し、24歳でシェフに就任。日本全国、ときには海外からもいらっしゃるお客様をもてなし、調理とサービス、両方が学べました」
北信州のスキー場ゲレンデレストランに出向
スタッフ全員が一体感をもって働く、人間味のある雰囲気にしたい。そんな願いから、ホールでのサービスも含め、なんでも率先して動いた。
「調理とサービスの垣根をなくしたかったんです。一人でも壁をつくるスタッフがいれば、いいレストランはできませんからね。閑散期の冬場は、北信州にあるスキー場で、ゲレ食(ゲレンデで提供する食事)を担当。再びラーメンやカレーなどを手がけることになったんですが、その経験もあとに生きてくるから、人生ってソンになることは一つもないんだと感じます」
軽井沢ホテルブレストンコート時代

弱くなったものに再び命を与える再生プロジェクトは、喜びが大きい。

やがて次なる展開を求め、32歳で星野リゾートに転職。地元長野にある軽井沢ホテルブレストンコートの配属となった。
「当時はまだ基盤が小さかったんですが、軽井沢から全国、世界へという志の高さに惹かれて入社しました。会社が大きくなっていく過程を見られて幸運でした」
トマムの再生に携わった時の同僚のみなさんと
ホテルではレストランウエディングの会食を担当。閑散期の冬季は北海道へ。携わったのは、同社が運営を引き継いだばかりのリゾート(現・星野リゾート トマム)の再生プロジェクトだった。
「主に任されたのはゲレ食の改善です。何か名物をつくろうと、ゲレンデでありながらも、ちゃんと出汁をとったラーメンを提供するようにして。学校で中国料理を学んだこともゲレ食の経験も、すべて活かせました」
ゲレ食の再起をかけて同僚たちと開発した味噌ラーメン
しかし業務はそれだけではない。リゾート全体の再生は容易ではなかった。
「長く働いている人たちには少なからず敵対心があったでしょうし、一緒に立て直そうと説得するのも大変でした。当初は新たにやって来た若手との壁もありましたが、経営母体が変わったにもかかわらず残ってくれた人たちは、歴史やノウハウを知っている大切な財産です。教わるべきところは教わって力を合わせようと、一致団結するムードを高めていきました」
トマム山頂付近から
赴任前は1カ月間だけでいいという話だったが、気がつけば3月までのワンシーズンをそこで過ごした。
「うれしかったのは、一緒に携わった若手たちが自ら願い出て業務を引き継ぎ、発展させてくれたのこと。今やトマムは集客も上がり、あの頃が嘘のように繁盛しています。弱くなったものに再び命を与える仕事は、喜びが大きい。とてもやりがいがありました」

人生は一度きり。やりたいことは全部やるべきだと、独立を決意。

軽井沢に戻ってからも、企業の保養所で提供するフランス料理のスーパーバイザーや、別荘などを会場とする披露宴のシェフを務めるなど、さまざまな経験を重ねた。2013年には、ブレストンコートの総料理長だった浜田統之シェフが日本代表として出場する「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」の応援のため、約20年ぶりにフランスへ。母校を訪ね、コアール先生をはじめ恩師との再会を果たしたことが、転機となった。
フランス校を訪問した際コアール先生と再会
「そのときに、フランスで働いている日本人が増えていることを聞いたんですよ。一方、自分は40歳にさしかかろうとして、人生で一番でかい壁に当たっていました。周りの友人たちが料理長やオーナーシェフになっていくなか、自分は不器用だし華もない。世の中の役に立っている感覚がなく、思い悩んでいたんです」
自分にはいったい何ができるのか。思いつくままに書き出した。料理、サービス、人をまとめること、何かを立て直すこと…そのなかには「撮って書いて、何かを発信すること」も含まれていた。
『信州の料理人、海を渡る。』オフィスエム発行 から
「思い出したのが、中学時代の先生の言葉です。悩みを相談したとき、『人生は一度きりだから、自分のやりたいことは全部やればいい』と言ってもらえた記憶に後押しされ、とにかく独立しようと決めました」
勤務最後の年となった2015年には再び渡仏。パリのレストランを巡り、驚きの事実を知ることになる。
『信州の料理人、海を渡る。』オフィスエム発行 から
「2年前よりさらに日本人料理人が増えていたうえ、山岸啓介さん(『エチュード』オーナーシェフ)のもとを訪ねた際に、実は自分たちと同じ長野県出身者が多いと教えてもらったんですよ。そこからどんどん、パリのみならず香港にまでネットワークが広がっていきました」
遠い異国の地で、彼らが頑張っていることを伝えたい。使命感にも似た気持ちがわきあがった。信州出身というくくりで、海を渡った料理人をまとめたら面白いのではないか。そんな考えから、書籍化の企画は始まった。

撮影や執筆を通じて発信するフランス料理人 #02 に続く
『信州の料理人、海を渡る。』オフィスエム発行 から

大友秀俊さんの卒業校

辻󠄀調理師専門学校 launch

辻󠄀調グループフランス校 フランス料理研究課程 launch

辻󠄀調グループ フランス校

本場でしか学べないことがきっとある

フランス・リヨンに郊外にあるふたつのお城の中には、
フランス料理とヨーロッパ菓子を学ぶための最新設備がずらり。
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